本多警部のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 17:54 UTC 版)
「昭和天皇誤導事件」の記事における「本多警部のその後」の解説
この前代未聞の過失に対して関係者が処分されることになった。事件後、当事者の1人である本多警部は自宅謹慎していたが、県当局は自決を心配し部下2人を監視に付かせていた。しかし2日後、昭和天皇一行を乗せたお召し列車が前橋駅を出発する時刻が迫った時、本多警部は部下や家人に「見送りに行け」と命じ、その間に、列車が駅を出発した汽笛と共に日本刀で喉を突いて自決を図った。しかし、日本刀を素手で持っていたため、指が切れて突く力が弱くなり、一命を取り止めた(一部の資料では死亡したとされるが誤伝である)。このことは天皇一行にも「警部が責任を取り、自決した」と報告されたという。自決を図ったことについては、当時は「よくぞ責任を取ってくれた」と賞賛する声が挙がったという。 本多警部は一命を取り止めたものの後遺症は重大で、舌の筋肉が切断されたため、会話に支障が出る状態になった上に、食道と気道が癒着してしまい、食事をするのも難しい状態になった。彼は全国からの賞賛の声に励まされ、「もう1度天皇陛下のために生きる」決心をしたという。警察の出世コースからは外れたが、国立療養所事務長などを歴任し、1946年(昭和21年)まで公職を務めたという。 1945年(昭和20年)8月15日、日本の降伏により、太平洋戦争(大東亜戦争)は日本の敗戦で終結した。戦後、昭和天皇が戦前・戦中期のような軍服姿ではなく背広姿で日本各地を巡幸する姿を見て、本多元警部は「武士道は必要なくなった」「もう世を捨てた」と漏らしたという。 晩年は郷里で農業に従事し、1960年(昭和35年)5月22日に68歳で死去したという。
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