木造伎楽面重要文化財。奈良時代。木造伎楽面29面と乾漆伎楽面1面の計30面が重要文化財に指定され、木造伎楽面残欠5片(4面分)と乾漆伎楽面残欠7片(3面分)が附(つけたり)指定となっている。伎楽は推古天皇20年(612年)に百済人の味摩之(みまし)が日本へ伝えたとされる仮面舞踏劇である。天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼会でも伎楽が演じられ、その時に使用した伎楽面が正倉院と東大寺とに残っている。正倉院に残る伎楽面は171面(木造135、乾漆造36)であり、東大寺所蔵の伎楽面30面と断片7面分も正倉院所蔵分と一連のものである。前述のように、30面のうちの1面と断片のうち4面分のみが乾漆造で他はすべて木造(キリ材)である。伎楽のストーリーについて正確なことはわかっていないが、狛近真の『教訓抄』という書物(天福元年・1233年)によると、恐ろしい顔をした「崑崙」(こんろん)が「呉女」という美女に懸想して卑猥なふるまいをするが、「力士」にこらしめられる、という滑稽なストーリーであったと推定される。『西大寺資財帳』によると、使用される面は治道、師子(しし)、師子児(ししこ、2面)、呉公、金剛、迦楼羅、崑崙、呉女、力士、波羅門、太孤父(たいこふ)、太孤児(たいこじ、2面)、酔胡王(すいこおう)、酔胡従(すいこじゅう、8面)の14種類、23面であった。これら14種類の面の名称(役柄)が、現存する伎楽面のどれに該当するのかについては、昭和戦前期から研究が積み重ねられてきたが、一部の面については名称に混乱が生じており、『奈良六大寺大観 東大寺二』の解説は、東大寺所蔵の30面がそれぞれいずれの面種に該当するかの特定を避けている。成瀬正和の分類によれば、30面の内訳は、治道1面、童子の面(師子児または太孤児)5面、呉公1面、金剛1面、迦楼羅1面、崑崙4面、力士2面、波羅門3面、太孤父4面、酔胡王1面、酔胡従7面(うち1面乾漆)となっている。30面の中には面裏に天平勝宝4年(752年)の年紀や面の作者名を墨書(または朱漆書)するものもあり、作者としては捨目師、基永師、延均師、相李魚成の4名の名が判明している。木造伎楽面
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「東大寺の仏像」の記事における「木造伎楽面重要文化財。奈良時代。木造伎楽面29面と乾漆伎楽面1面の計30面が重要文化財に指定され、木造伎楽面残欠5片(4面分)と乾漆伎楽面残欠7片(3面分)が附(つけたり)指定となっている。伎楽は推古天皇20年(612年)に百済人の味摩之(みまし)が日本へ伝えたとされる仮面舞踏劇である。天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼会でも伎楽が演じられ、その時に使用した伎楽面が正倉院と東大寺とに残っている。正倉院に残る伎楽面は171面(木造135、乾漆造36)であり、東大寺所蔵の伎楽面30面と断片7面分も正倉院所蔵分と一連のものである。前述のように、30面のうちの1面と断片のうち4面分のみが乾漆造で他はすべて木造(キリ材)である。伎楽のストーリーについて正確なことはわかっていないが、狛近真の『教訓抄』という書物(天福元年・1233年)によると、恐ろしい顔をした「崑崙」(こんろん)が「呉女」という美女に懸想して卑猥なふるまいをするが、「力士」にこらしめられる、という滑稽なストーリーであったと推定される。『西大寺資財帳』によると、使用される面は治道、師子(しし)、師子児(ししこ、2面)、呉公、金剛、迦楼羅、崑崙、呉女、力士、波羅門、太孤父(たいこふ)、太孤児(たいこじ、2面)、酔胡王(すいこおう)、酔胡従(すいこじゅう、8面)の14種類、23面であった。これら14種類の面の名称(役柄)が、現存する伎楽面のどれに該当するのかについては、昭和戦前期から研究が積み重ねられてきたが、一部の面については名称に混乱が生じており、『奈良六大寺大観 東大寺二』の解説は、東大寺所蔵の30面がそれぞれいずれの面種に該当するかの特定を避けている。成瀬正和の分類によれば、30面の内訳は、治道1面、童子の面(師子児または太孤児)5面、呉公1面、金剛1面、迦楼羅1面、崑崙4面、力士2面、波羅門3面、太孤父4面、酔胡王1面、酔胡従7面(うち1面乾漆)となっている。30面の中には面裏に天平勝宝4年(752年)の年紀や面の作者名を墨書(または朱漆書)するものもあり、作者としては捨目師、基永師、延均師、相李魚成の4名の名が判明している。木造伎楽面」の解説
重要文化財。鎌倉時代。前項の伎楽面(奈良時代作)とは別件で「木造伎楽面2面」として重要文化財に指定されている。「治道」と「師子児」(ししこ)の2面で、前者には建久7年(1196年)康慶作の朱漆銘があり、後者も鎌倉時代初期の作である。康慶は運慶の父にあたる鎌倉時代を代表する仏師である。鎌倉時代は舞楽が全盛で伎楽はほとんど絶えており、これらの面が鎌倉時代初期に制作された背景事情は明らかではない。
※この「木造伎楽面重要文化財。奈良時代。木造伎楽面29面と乾漆伎楽面1面の計30面が重要文化財に指定され、木造伎楽面残欠5片(4面分)と乾漆伎楽面残欠7片(3面分)が附(つけたり)指定となっている。伎楽は推古天皇20年(612年)に百済人の味摩之(みまし)が日本へ伝えたとされる仮面舞踏劇である。天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼会でも伎楽が演じられ、その時に使用した伎楽面が正倉院と東大寺とに残っている。正倉院に残る伎楽面は171面(木造135、乾漆造36)であり、東大寺所蔵の伎楽面30面と断片7面分も正倉院所蔵分と一連のものである。前述のように、30面のうちの1面と断片のうち4面分のみが乾漆造で他はすべて木造(キリ材)である。伎楽のストーリーについて正確なことはわかっていないが、狛近真の『教訓抄』という書物(天福元年・1233年)によると、恐ろしい顔をした「崑崙」(こんろん)が「呉女」という美女に懸想して卑猥なふるまいをするが、「力士」にこらしめられる、という滑稽なストーリーであったと推定される。『西大寺資財帳』によると、使用される面は治道、師子(しし)、師子児(ししこ、2面)、呉公、金剛、迦楼羅、崑崙、呉女、力士、波羅門、太孤父(たいこふ)、太孤児(たいこじ、2面)、酔胡王(すいこおう)、酔胡従(すいこじゅう、8面)の14種類、23面であった。これら14種類の面の名称(役柄)が、現存する伎楽面のどれに該当するのかについては、昭和戦前期から研究が積み重ねられてきたが、一部の面については名称に混乱が生じており、『奈良六大寺大観 東大寺二』の解説は、東大寺所蔵の30面がそれぞれいずれの面種に該当するかの特定を避けている。成瀬正和の分類によれば、30面の内訳は、治道1面、童子の面(師子児または太孤児)5面、呉公1面、金剛1面、迦楼羅1面、崑崙4面、力士2面、波羅門3面、太孤父4面、酔胡王1面、酔胡従7面(うち1面乾漆)となっている。30面の中には面裏に天平勝宝4年(752年)の年紀や面の作者名を墨書(または朱漆書)するものもあり、作者としては捨目師、基永師、延均師、相李魚成の4名の名が判明している。木造伎楽面」の解説は、「東大寺の仏像」の解説の一部です。
「木造伎楽面重要文化財。奈良時代。木造伎楽面29面と乾漆伎楽面1面の計30面が重要文化財に指定され、木造伎楽面残欠5片(4面分)と乾漆伎楽面残欠7片(3面分)が附(つけたり)指定となっている。伎楽は推古天皇20年(612年)に百済人の味摩之(みまし)が日本へ伝えたとされる仮面舞踏劇である。天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼会でも伎楽が演じられ、その時に使用した伎楽面が正倉院と東大寺とに残っている。正倉院に残る伎楽面は171面(木造135、乾漆造36)であり、東大寺所蔵の伎楽面30面と断片7面分も正倉院所蔵分と一連のものである。前述のように、30面のうちの1面と断片のうち4面分のみが乾漆造で他はすべて木造(キリ材)である。伎楽のストーリーについて正確なことはわかっていないが、狛近真の『教訓抄』という書物(天福元年・1233年)によると、恐ろしい顔をした「崑崙」(こんろん)が「呉女」という美女に懸想して卑猥なふるまいをするが、「力士」にこらしめられる、という滑稽なストーリーであったと推定される。『西大寺資財帳』によると、使用される面は治道、師子(しし)、師子児(ししこ、2面)、呉公、金剛、迦楼羅、崑崙、呉女、力士、波羅門、太孤父(たいこふ)、太孤児(たいこじ、2面)、酔胡王(すいこおう)、酔胡従(すいこじゅう、8面)の14種類、23面であった。これら14種類の面の名称(役柄)が、現存する伎楽面のどれに該当するのかについては、昭和戦前期から研究が積み重ねられてきたが、一部の面については名称に混乱が生じており、『奈良六大寺大観 東大寺二』の解説は、東大寺所蔵の30面がそれぞれいずれの面種に該当するかの特定を避けている。成瀬正和の分類によれば、30面の内訳は、治道1面、童子の面(師子児または太孤児)5面、呉公1面、金剛1面、迦楼羅1面、崑崙4面、力士2面、波羅門3面、太孤父4面、酔胡王1面、酔胡従7面(うち1面乾漆)となっている。30面の中には面裏に天平勝宝4年(752年)の年紀や面の作者名を墨書(または朱漆書)するものもあり、作者としては捨目師、基永師、延均師、相李魚成の4名の名が判明している。木造伎楽面」を含む「東大寺の仏像」の記事については、「東大寺の仏像」の概要を参照ください。
- 木造伎楽面重要文化財。奈良時代。木造伎楽面29面と乾漆伎楽面1面の計30面が重要文化財に指定され、木造伎楽面残欠5片と乾漆伎楽面残欠7片が附指定となっている。伎楽は推古天皇20年に百済人の味摩之が日本へ伝えたとされる仮面舞踏劇である。天平勝宝4年の東大寺大仏開眼会でも伎楽が演じられ、その時に使用した伎楽面が正倉院と東大寺とに残っている。正倉院に残る伎楽面は171面であり、東大寺所蔵の伎楽面30面と断片7面分も正倉院所蔵分と一連のものである。前述のように、30面のうちの1面と断片のうち4面分のみが乾漆造で他はすべて木造である。伎楽のストーリーについて正確なことはわかっていないが、狛近真の『教訓抄』という書物によると、恐ろしい顔をした「崑崙」が「呉女」という美女に懸想して卑猥なふるまいをするが、「力士」にこらしめられる、という滑稽なストーリーであったと推定される。『西大寺資財帳』によると、使用される面は治道、師子、師子児、呉公、金剛、迦楼羅、崑崙、呉女、力士、波羅門、太孤父、太孤児、酔胡王、酔胡従の14種類、23面であった。これら14種類の面の名称が、現存する伎楽面のどれに該当するのかについては、昭和戦前期から研究が積み重ねられてきたが、一部の面については名称に混乱が生じており、『奈良六大寺大観 東大寺二』の解説は、東大寺所蔵の30面がそれぞれいずれの面種に該当するかの特定を避けている。成瀬正和の分類によれば、30面の内訳は、治道1面、童子の面5面、呉公1面、金剛1面、迦楼羅1面、崑崙4面、力士2面、波羅門3面、太孤父4面、酔胡王1面、酔胡従7面となっている。30面の中には面裏に天平勝宝4年の年紀や面の作者名を墨書するものもあり、作者としては捨目師、基永師、延均師、相李魚成の4名の名が判明している。木造伎楽面のページへのリンク