朝廷・公家政権における取次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 18:07 UTC 版)
「取次 (歴史学)」の記事における「朝廷・公家政権における取次」の解説
詳細は「申次」および「伝奏」を参照 平安時代には天皇や院に対する奏事伝達を務める者を「申次」と称した。当初は女房や近臣がその役目を担っていたが、院政期には院近臣の中でも院の信寵を受けた人々が申次を務めた。伝奏は、院政期以降、幕末まで公家政権(朝廷)内に設けられた役職で、本来は治天の君(院政の政権担当者たる上皇)に近侍して奏聞(天皇・上皇への上奏)・伝宣(天皇・上皇の勅旨の伝達)の仲介を担当したが、のちに天皇親政の際にも設けられた。また江戸時代に著わされた『雲上名鑑』には仙洞御所に取次衆という役があったことが記載されている。 武家政権が成立した鎌倉時代以降は武家との連絡を取る必要が生まれた。鎌倉時代に設置された関東申次は西園寺家が世襲し、幕府の権力を背景に大きな権力を振るった。南北朝時代前期には武家執奏が設置され、幕府からの意見を取次いだ。しかし足利義満が院執事に就任したことから、武家は伝奏を介して朝廷への意思伝達を行うようになり、武家執奏は廃止された。この頃から伝奏の中で武家との連絡に当たる者を武家伝奏と呼ぶようになり、江戸時代まで存続することになった。 また寺社との取次役には、鎌倉時代に寺社伝奏(社寺伝奏とも)が設置されている。この伝奏は一人で複数の寺社を担当することもあったが、伊勢神宮・賀茂社・石清水八幡宮にはそれぞれ別の伝奏が置かれた。
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