有名な二装甲艦の最期と遺産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 19:06 UTC 版)
「ハンプトン・ローズ海戦」の記事における「有名な二装甲艦の最期と遺産」の解説
ハンプトン・ローズ海戦の後では、どちらの艦も戦争で大した役を果たすことはなく、1862年まで生き残った。 ハンプトン・ローズを囲む土地での戦局は、南軍にノーフォーク地区を見捨てることを強いた。1862年5月10日、ノーフォークとポーツマスから撤退するとき、バージニアの士官と兵は2-3の選択とともに残された。連合国の首都・バージニア州リッチモンドまでジェイムズ川を遡航するにはバージニアは吃水が深すぎることを、そしてこの退却を確実に予期しているモンロー砦から派遣されて待ち受ける北軍の艦隊をやり過ごし、ハンプトン・ローズをうまく脱出するチャンスがほとんどないことを、ジョサイア・タットノール司令官はよく理解していた。 鹵獲されるのを防ぐため、1862年5月11日の早朝、タットノールはバージニアをクレイニー島へ擱座させて火を放つよう命令した。約1時間に渡って猛烈に燃えた後、炎は弾薬庫に達し、艦は大爆発とともに破壊された。 1876年5月30日、戦後10年以上たって、バージニアの廃船体が引き揚げられてノーフォーク海軍造船所(ゴスポート造船所が合衆国による奪還後に改称)に運び戻され、解体された。 装甲板、錨、砲を含むバージニアの一部分は、ポーツマスのノーフォーク海軍造船所およびニューポートニューズの海員博物館 (Mariners' Museum) に展示されている。バージニアの錨はリッチモンドの南部連合博物館 (Museum of the Confederacy) の正面の芝生に鎮座している。 モニターはモニター艦の原型となった。河川用モニター艦を含む多数の後継艦が作られ、ジェイムズ川とミシシッピ川において南北戦争の鍵となる役割を演じた。しかしながら、その設計が河川での戦いに非常によく適合していることは証明されたが、低い船体と重い砲塔は荒い海での航行性能を貧弱にする原因となった。1862年10月、ノースカロライナ州ハッテラス岬沖で元祖モニターを早い最期に導いたのは、おそらくこの特徴である。1973年、残骸が見つかっている。
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