最上との衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 09:55 UTC 版)
第七戦隊は熊野、鈴谷、三隈、最上の順に各艦800mの距離を置く縦列隊形をとり、速度28ノットで北北西に向かった。午後11時半、浮上中の米潜水艦タンバーが高速で接近する第七戦隊を発見し、急速潜航した。第七戦隊も右45度前方にタンバーを発見し、熊野は僚艦に信号灯で左緊急45度一斉回頭を指示した。熊野当直参謀の岡本功少佐が左45度1回では回避角が足りないと判断し、無線電話で追加の左45度回頭を連絡した。熊野は90度回頭したが、後続の3艦は無線連絡が信号指示の確認と誤認して混乱し、熊野が後続艦の前方右から左に横切る隊形となった。直後の鈴谷は面舵30度で熊野の艦尾をかすめ、隊列右に外れた。 三隈は熊野を視認すると左に舵を切って衝突ルートを回避した。最後尾の最上も熊野を視認し、左25度に変針したが、熊野を直前の三隈と誤認した。このため熊野との中間右から三隈が併進することを想定せず、縦列隊形に戻って追尾するため右45度に転舵した結果、三隈と最上が急接近した。最上が前方を横切る三隈を視認し左に舵を切ったが、三隈の左舷中央部に衝突した。 三隈は艦橋~煙突下の舷側に長さ20m、幅2mの破孔が生じ、電信室で火災が発生。左舷燃料タンクが破損、浸水で左に4度傾斜したが、右舷に注水して復元し、消火にも成功した。最上は艦首が圧壊して前進が困難になり、栗田中将は連合艦隊司令部に報告した後、第七戦隊の第1小隊と第2小隊を分離し、鈴谷と熊野は連合艦隊主隊との合流のため北西に向かい、三隈の崎山釈夫艦長には最上を掩護してトラック島への撤退を命じた。 戦史叢書は、栗田中将が『事故地点がミッドウェー島から約100海里で翌朝の空襲は必須であり、現場にとどまれば健在の2隻ごと全滅が予想されるので、せめて健在2隻だけでも避退させるのが有利であると判断した』と記述している。宇垣纏連合艦隊参謀長は『戦隊全艦で最上を護衛した方が良かったのではないか』と指摘した。 最上は最大速力が14-16ノット程度まで復旧し、三隈が護衛して避退を続けた。タンバーの報告を受けた米第16任務部隊は、第七戦隊を追撃するため南下した。6日午前6時30分、三隈と最上にPBYカタリナ飛行艇が触接し、ミッドウェー基地航空隊のB-17重爆8機、SB2Uビンジゲーター6機、SBDドーントレス6機が攻撃に向かった。午前8時40分に攻撃を開始し、最上で2名が戦死したが命中弾はなく、三隈は第二艦隊に被害なしと報告した。 この攻撃でSBU隊指揮官のフレミング大尉が戦死し、米軍は「三隈の4番砲塔に体当たりした」としてメダル・オブ・オナー(名誉勲章)を授与した。
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