昭和後期の桜島の爆発と集団移住
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「有村町」の記事における「昭和後期の桜島の爆発と集団移住」の解説
昭和50年代後半から昭和60年代にかけて桜島南岳の活動が活発となり、有村町では民家に噴石が落下し自動車のフロントガラスや家屋を破損する被害が多数発生した。1984年(昭和59年)7月21日には桜島南岳において爆発が発生した。この爆発により0.5メートルから1.5メートルほどの火山弾が有村町に落下し、粉砕した噴石が13世帯に直撃したほか、住宅火災が11件発生し、国道224号に落下した火山弾が電力線を切断し桜島全域が一時停電した。大量の火山灰が有村町に降り注ぎ、1984年(昭和59年)の年間の降灰量は1平方メートルあたり59キログラムとなった。爆発翌日の7月22日には有村町内会は緊急総会を開き、「ここに住み続けると命を取られる」として集団移住を決議して鹿児島市に移住先の確保及び移転費補助を求める陳情を提出した。有村町の住民のうち51世帯のうち21世帯が移住を希望した。さらに翌年の1985年(昭和60年)7月6日には1メートルほどの噴石が民家の倉庫を直撃する被害も発生した。 陳情を受けた鹿児島市は住民の安全確保のため大正大噴火以来となる集団移転事業を実施することとなった。当初は防災のための集団移転促進事業に係る国の財政上の特別措置等に関する法律に基づいた国からの補助がある「防災集団移転促進事業」による集団移転を検討したが、全戸の桜島島外への移転を原則とする同事業の基準に一致しなかったことから鹿児島市の単独事業として実施された。 1987年(昭和62年)3月より対岸の薩摩半島にある星ヶ峯団地(現在の星ヶ峯)に集団移住が行われ、22世帯51人が移住した。また1992年(平成4年)には3世帯5人が移転し、他にも隣接する古里町や、鹿児島市街地にある紫原団地(現在の紫原)への移住も行われた。集団移転事業によって全体の6割に当たる56人の住民移転が行われた。1986年(昭和61年)には94名であった有村町の人口は1995年(平成7年)の国勢調査時には37名にまで減少した。
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