旧4大字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 06:23 UTC 版)
外旭川の基となった神田、笹岡、水口、八柳は、いずれも江戸時代を通じて久保田藩領の農村であった。 神田村は、堪田とも書かれ、中世以前に古四王神社の神田として開発された。 笹岡村は、草生津川の水源の1つである笹岡潟があり、太古には飯島方面から海が湾入していたという言い伝えがある。日吉八幡神社が最初に鎮座した地ともいわれ、また文化期の菅江真澄による遺跡描写から館と館林もあったとされる。「秋田家分限帳写」に「笹国村 251石余」とあるのが初見史料である。 水口村は、水ノ口(みのぐち)とも呼ばれ、穴堰で旭川の水を引いた用水口にあたり、中世から開発が行われていた。但し「享保郡邑記」によると、元禄3年(1690年)に寺内村のうち668石余が帳分けされ、川尻村枝郷のうち49石余を移管した枝郷山崎と合わせて、宝永2年(1702年)に黒印を受け成立したとなっている。 八柳村は、古代の一ノ坪条里制地帯として開発された。「豊臣秀頼朱印蔵入帳写」に「八柳村 348石」とあるのが初見史料で、「秋田風土記」によると秋田実季の家臣である八柳氏の古城があったという。 史料神田村笹岡村水口村八柳村豊臣秀吉朱印蔵入帳写(天正19年正月17日)(1591年2月10日) 348石、慶長2年物成80石、慶長3年物成50石 秋田家分限帳写(文禄元年8月22日)(1592年9月27日) 笹国村 251石余 795石余 秋田家分限帳(慶長6年) 775石 (慶長8年) 村高495石余 村高15石余 村高623石余 村高410石余 正保国絵図 本田当高445石 笹岡新田村 本田当高41石 本田当高355石 元禄七郡絵図 435石余 笹岡新田村 90石 水口新田村 727石余 350石余 享保黒印高帳 村高862石余、当高743石余(うち本田496、本田並153、新田94) 村高198石余、当高120石余(うち本田11、本田並47、新田62) 村高656石余、当高733石余(うち本田700、本田並15、新田18) 村高609石余、当高570石(うち本田424、本田並117、新田29) 享保郡邑記 73軒(うち枝郷8ヶ村分58) 22軒(うち枝郷1ヶ村分5) 57軒(うち枝郷3ヶ村分37) 79軒(うち枝郷5ヶ村分63) 寛政村附帳 親郷川尻村の寄郷当高741石(うち蔵分471、給分270) 親郷泉村の寄郷当高145石余(すべて給分) 親郷泉村の寄郷当高736石余(うち蔵分626、給分110) 親郷泉村の寄郷当高513石余(うち蔵分418、給分95) 秋田風土記 743石、73戸 733石余、戸数60(枝郷3ヶ村を含む) 高599石余、戸数79(枝郷3ヶ村を含む) 天保郷帳 345人、743石余 120石余 733石余 569石余 羽陰温故誌 人口300、馬60 人口400、馬68
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