旧石器時代、縄文時代、古墳時代など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 14:05 UTC 版)
「斧」の記事における「旧石器時代、縄文時代、古墳時代など」の解説
日本においても旧石器時代より斧は「石斧」として使用されてきた。はじめは石を打ち欠いて整形した「打製石器」だったが、縄文時代に滑らかに研ぎ澄まされた「磨製石斧」へと進歩し、大いに作業性が高まった。大木の根元で火を焚き、石斧で削りとる方式で伐採されたクリの巨木で作られた櫓や「ウッドサークル」を、青森県三内丸山遺跡や北陸のチカモリ遺跡に見ることができる。弥生時代に中国大陸や朝鮮半島より鉄製の斧が伝来したが、当時は鉄が貴重品だったため、鉄の使用量が少なくて済む、鍬のように木製の刃の先に鉄を被せた形状のものが流通していた。それでも貴重な品で、権力者の石棺に副葬品として納められるほどの重要性を持っていた(なお、戦前まで沖縄で使われていた斧「ウーヌ」は、これとよく似た、木の台に刃を被せた形状である)。やがて鉄器製造技術の向上によって斧は刃の全てを鉄で作られるようになり、古墳時代から飛鳥時代にかけて全国的に広まり、さらに続縄文時代だった北海道にも伝播した。 鋸がほとんど普及していなかった鎌倉時代以前の日本において、斧・ちょうな・鑓鉋は伐採から製材と仕上げをこなす唯一の道具であった。斧で木を伐り倒して断ち切り、楔で引き裂いて角材や板材の大まかな形を取り、ちょうなや鑓鉋で表面を仕上げる。この時代のちょうなは現在と似たようなものから刃幅3センチメートルくらいの片手で扱うものまで多種多様であった。日本では杉、檜のように、木目が通っていて引き割りやすい針葉樹が豊富であったため良質な材が枯渇しだす鎌倉時代までは鋸が普及することはなかった。法隆寺などにおいては、柱はもとより戸板や窓の格子に至るまで、樹齢2千年級の檜の巨材を斧で断ち切り、楔で打ち割ることによって素材を得ている。このような状況ゆえに、良材を原料にしなければ作れない大型の板は、大変に高価なものだった。
※この「旧石器時代、縄文時代、古墳時代など」の解説は、「斧」の解説の一部です。
「旧石器時代、縄文時代、古墳時代など」を含む「斧」の記事については、「斧」の概要を参照ください。
- 旧石器時代、縄文時代、古墳時代などのページへのリンク