旧上作延村とは? わかりやすく解説

旧上作延村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 13:57 UTC 版)

向ヶ丘 (川崎市)」の記事における「旧上作延村」の解説

橘樹郡上作延(かみさくのべむら)は、諸史料によれば、かつて江戸時代までは隣接する下作延とともに「作延郷」であったが、その後分割した考えられており、その正確な年代不明である。 現在は、そのほぼ全域高津区上作延になり、南端部の一部高津区向ヶ丘となっている。また下作延、神木本町二・四丁目との境界一部変更している。 緑ヶ丘霊園南側が町域に含まれ標高差約 30m の急傾斜地に挟まれ地形で、その間東西方向狭長の谷を平瀬川流れ低地部分の標高は 20m 前後である。 霊園がある丘陵のふもとには延命寺赤城神社立地する赤城神社は旧村内点在していた神社等を合祀したもので、この下が「宮ノ下」と呼ばれ商店街形成されていた。この辺りが中心であり、また東急田園都市線梶が谷駅開業するまでは身代り不動尊大明王院下作延)への参拝当地通っていったことから、人通り多かったものと考えられる。 また延命寺天台宗赤城山妙覚院称し深大寺末寺である。現在の釈迦堂付近に、かつて釈迦堂があり、これが元和元年当地移された。赤城とともに一つの坊とされていたが、神仏分離令以降分離されている。 この他古くからの住民により今も講が残されている地域であり、念仏講稲荷講地神講庚申待善光寺講、御嶽講などが活動している。実際当地域の道端には地蔵庚申塔などを見掛けることが多くその様子が伝わってくる。 旧上作延村内には次の字名がある。 北原きたはら) 原間谷(はらまやと) 南原(みなみはら) 中央流れ平瀬川周辺田畑開かれ、ここが「原間谷」と呼ばれていた。その両岸に迫る丘陵地北側が「北原」(通称日向」)、南側が「南原」(通称日陰」)と呼ばれていた。なお、北原・南原の「原」は、丘陵地の上台地になっているころから付けられたものと考えられている。 地名の由来については定説はないが、狭隘な場所を意味するサク」が東西延びている様子から「作延」と呼ばれるようになった、とも考えられている。また「上」「下」については、かつて関東では京都寄り土地を「上」、江戸寄りを「下」と名付けることが一般的であったと言われており、それに習ったものと考えられている。

※この「旧上作延村」の解説は、「向ヶ丘 (川崎市)」の解説の一部です。
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