日雇いから軍人へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/01 14:30 UTC 版)
河南省陳州府沈丘県蔡荘村(現在の周口市項城市官会鎮(中国語版))に医者の子として生まれる。7歳で私塾に通うが、父が亡くなったため、小作農や金持ちの雇い人としてその日暮らしを行う苦難の少年期を送った。17歳の時、父と親交があった家の娘と結婚するが、日雇いであったことから義父の家の者から白眼視された。結局彼らからの冷たい視線に耐えかね、2番目の兄の李鳴鋁が北京で当兵をしていたことから離婚して兄の後を追って軍人への道を歩む。 李鳴鐘が入ったのは袁世凱の北洋新軍武衛右軍で、右翼(翼長:呉長純)第三営左隊右哨四棚に配属された。正目(班長)、哨長、督隊官を務める。 1909年(宣統元年)、奉天・新民の第二十鎮(中国語版)随営学堂を卒業し、新軍第20鎮排長として勤務の傍ら、馮玉祥の反清地下組織「武学研究会」に加入。辛亥革命に呼応して1912年1月、灤州兵変(中国語版)に参加するも鎮圧され、軍籍を剥奪される。 清朝消滅後は軍に呼び戻され、京防営務処(中国語版)の衛兵を務めていたが、1912年(民国元年)2月29日、北京兵変での北洋軍兵士による略奪が起こったため、5個備補軍への再編がなされた。陸建章率いる左路備補軍の前営営長に馮玉祥が任ぜられるとその配下となり、以後軍歴を順調に重ねていく。1915年(民国4年)12月の護国戦争当時、第16混成旅第1団第3営長として四川省に駐屯していたが、南方政府を支持し、蔡鍔の部下であった朱徳とも連携している。1917年(民国10年)年には湖北省廊坊地区に駐屯していたが、6月に馮玉祥が更迭されると連長以上の軍官と連名で復帰を求めた。張勲復辟が起こると天壇付近にて弁子軍残部3000人を包囲する。鎮圧後少将に昇進。1918年頭、馮玉祥に随行して湖南省の護法軍を撃破し、常徳に移駐。第3団に改編される。
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