日比谷の暴動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 08:15 UTC 版)
9月5日、東京・日比谷公園でも野党議員が講和条約反対を唱える民衆による決起集会を開こうとした。警視庁は不穏な空気を感じ禁止命令を出し、丸太と警察官350人で公園入り口を封鎖した。 しかし怒った民衆たちが日比谷公園に侵入。一部は皇居前から銀座方面へ向かい、国民新聞社を襲撃した。すぐあとには内務大臣官邸を抜刀した5人組が襲撃し、棍棒丸太で裏門からも襲われた。銀座からの群衆も襲撃に加わった。そうして、東京市各所の交番、警察署などが破壊され、市内13か所以上から火の手が上がった。 この時、日本正教会がロシアと関係が深かったことから、ニコライ堂とその関連施設も標的になりあわや焼かれる寸前であったが、近衛兵などの護衛により難を逃れた。また群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の駐日アメリカ公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった。 河野広中は条約締結に反対し、9月に日比谷公園で講和条約反対を目的に開かれた国民大会の議長として日比谷の焼打事件を扇動する。のちに建築家、新宿末廣亭席亭となる当時14歳の北村銀太郎は、四谷で暴徒を扇動する姿を目撃している。 河野広中が昼間、馬に乗って来ちゃ、扇動するわけなんだよ。「来たれ、来たれ、集まっていっせいに卑屈醜辱なる講和条約に対する不満の声を九重(ここのえ)の天に上げよ。聖明かならず赤子の至情を諒としたまふであらう」ってね。馬のいななきの中からボンボン、彼の声が飛んで来る。すると、みんな、もっともだ、もっともだって・・・・・・。(中略)河野広中の扇動の仕方が、またやけに恰好いいんだよ。「血あるもの、涙あるもの、骨あるもの、鉄心あるもの、義を知るもの、恥を知るもの」って呼びかけて来る。これで人の心をつかんぢゃふ。(後略) — 北村銀太郎、 事件ののち、河野は兇徒聚衆罪に問われたが、明治39年(1906年)に無罪判決が出された。 これにより東京は無政府状態となり、翌9月6日、日本政府は東京市および府下5郡に戒厳令(緊急勅令による行政戒厳)を布き即日施行、近衛師団が鎮圧にあたることでようやくこの騒動を収めたのである(戒厳令廃止は11月29日)。この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にも上った。このうち裁判にかけられた者は104名、有罪となったのは87名であった。 なお、各地で講和反対の大会が開かれ、神戸(9月7日)、横浜(9月12日)でも暴動が起こった。
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