日本艦隊の帰投とは? わかりやすく解説

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日本艦隊の帰投

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 04:37 UTC 版)

礼号作戦」の記事における「日本艦隊の帰投」の解説

12月27日午前0時04分、木村司令官攻撃終了命令出し部隊避退行動移った避退途中で木村司令官は「これより清霜救助旗艦があたる。各艦は合同し避退せよ」と下令した。そして、上空敵機がおり敵魚雷艇襲撃危険性がある中、駆逐艦2隻(朝霜)は清霜生存者救助始めた。2時15分、両艦は救助活動終了後述)、増速して先行部隊足柄大淀)に追いついた。連合軍爆撃機空襲対処しつつ、航続距離のない松型駆逐艦3隻()を分離する木村司令官直率の4隻(朝霜足柄大淀)は12月28日午後6時30分にカムラン湾到着第二水雷戦隊旗艦大淀戻った型3隻は米潜水艦撃沈された給糧艦野埼生存者救出しつつ、12月29日正午前までにカムラン湾へ無事帰投した。サンジャック移動後、第二遊撃部隊日向伊勢足柄大淀朝霜)はリンガ泊地またはシンガポール向かった。なお、清霜乗員342名のうち隊司令艦長以下258名が救助された他、5名がその後アメリカ軍魚雷艇救助され戦死行方不明79であった迎撃派遣され巡洋艦4隻、駆逐艦8隻からなるチャンドラー部隊日本艦隊捕捉出来なかった。12月29日連合艦隊一行草鹿参謀長神大佐、淵田大佐)はフィリピン出発し高雄経由内地帰投した。草鹿と共にマニラ出張していた岡田貞外茂中佐岡田啓介海軍大将長男)は、12月26日比島上空戦死したという。 1945年昭和20年1月3日第二水雷戦隊司令官木村昌福少将から古村啓蔵少将交代した着任退任1月4日)。飛行艇便で内地戻った木村少将は、1月31日昭和天皇拝謁し戦況報告した

※この「日本艦隊の帰投」の解説は、「礼号作戦」の解説の一部です。
「日本艦隊の帰投」を含む「礼号作戦」の記事については、「礼号作戦」の概要を参照ください。

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