日本艦隊の帰投
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12月27日午前0時04分、木村司令官は攻撃終了命令を出し、部隊は避退行動に移った。 避退途中で木村司令官は「これより清霜の救助に旗艦があたる。各艦は合同して避退せよ」と下令した。そして、上空に敵機がおり敵魚雷艇の襲撃の危険性がある中、駆逐艦2隻(霞、朝霜)は清霜生存者の救助を始めた。2時15分、両艦は救助活動を終了(後述)、増速して先行部隊(足柄、大淀、樫、榧、杉)に追いついた。連合軍爆撃機の空襲に対処しつつ、航続距離のない松型駆逐艦3隻(樫、榧、杉)を分離する。木村司令官直率の4隻(霞、朝霜、足柄、大淀)は12月28日午後6時30分にカムラン湾到着。第二水雷戦隊旗艦は大淀に戻った。松型3隻は米潜水艦に撃沈された給糧艦野埼の生存者を救出しつつ、12月29日正午前までにカムラン湾へ無事帰投した。サンジャック移動後、第二遊撃部隊(日向、伊勢、足柄、大淀、朝霜、霞)はリンガ泊地またはシンガポールへ向かった。なお、清霜の乗員342名のうち隊司令、艦長以下258名が救助された他、5名がその後アメリカ軍魚雷艇に救助され、戦死・行方不明は79名であった。 迎撃に派遣された巡洋艦4隻、駆逐艦8隻からなるチャンドラー部隊は日本艦隊を捕捉出来なかった。12月29日、連合艦隊一行(草鹿参謀長、神大佐、淵田大佐)はフィリピンを出発し、高雄経由で内地に帰投した。草鹿達と共にマニラに出張していた岡田貞外茂中佐(岡田啓介海軍大将長男)は、12月26日に比島上空で戦死したという。 1945年(昭和20年)1月3日、第二水雷戦隊司令官は木村昌福少将から古村啓蔵少将に交代した(着任・退任1月4日)。飛行艇便で内地に戻った木村少将は、1月31日に昭和天皇に拝謁して戦況を報告した。
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