日本シリーズ終了後に公式戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 11:59 UTC 版)
「読売ジャイアンツ」の記事における「日本シリーズ終了後に公式戦」の解説
1955年の公式戦は大洋との3試合で天候不順の中止による順延が続いたため、日本シリーズの対南海戦の開幕までに全て消化し切れなかった。そのため、日本シリーズ、更にその後にも日米野球・ニューヨーク・ヤンキースを招待した親善試合が組まれていたこともあって、それらの大会が終了した11月下旬にようやく残った大洋戦3試合を消化。最終戦の開催は11月23日となった。 なお巨人は以下のシーズンに未消化試合を残したままペナントレースを終了している。 1937年秋季は10月27日の東京セネタース戦がきっかけとなる。1-2とリードされた9回裏1死1・3塁の巨人の攻撃で、水原茂の打球は投手ゴロ。投手→二塁手→一塁手と転送されるも、一塁がセーフとなる。この時にセネタースの二塁手・苅田久徳が「一塁走者の平山菊二が送球を妨害した」と抗議。これが認められ一塁もアウトとなり、試合が終了した。ジャイアンツはこの判定を不服として日本野球連盟に提訴(プロ野球初の提訴試合)。11月30日の連盟理事会でこの試合を無効として再試合を行うことを決定したが、すでに大阪タイガースの年度優勝が決まっており、仮にこの試合が行われたとしてもシーズンの順位に影響が及ばないことから、12月9日に中止が決定された。 1949年:日米野球に伴う公式戦一時中断に加え、2リーグ分立のあおりを受けて11月26日に日本野球連盟が解散したため、11月29日にペナントレースを打ち切った。このため6試合(阪急戦・大映戦・阪神戦各1試合、大陽戦3試合)を未消化のまま終了した。 1951年:120試合の予定だったが、日米野球の日程が迫っていたので10月9日をもって打ち切りとなり、6試合(国鉄戦2試合、広島戦4試合)を消化しないままで公式戦を終了。この時は9月23日に「打ち切り」が決定したことを受けてリーグ優勝が確定した。 1953年:国鉄との5試合の対戦が未消化だったが、これも日本シリーズ、さらには日米野球がこの年は2チーム(エド・ロパット・全米オールスターチームとニューヨーク・ジャイアンツ)が招待されており、残り試合の日程調整が付かなかったため、その5試合の開催を打ち切った。この年のジャイアンツは海外キャンプを行っていて、帰国が4月4日となり、3月28日のセ・リーグ開幕に間に合わなかったことも大きい。 2004年:オリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併に端を発した一連の球界再編問題で2日間(中日戦2試合(ナゴヤドーム))がストライキの対象となった。この2試合の代替日が設定されなかったため、138試合でリーグ戦を終えている。
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