日本におけるガトリング砲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 02:46 UTC 版)
「ガトリング砲」の記事における「日本におけるガトリング砲」の解説
日本では戊辰戦争においての河井継之助が率いた長岡藩兵が、ガトリング砲を実戦で使用した記録がある。河井は戊辰戦争における獨立特行を目指し、先進的な軍備の整備に努めて軍制改革を行い、横浜のアメリカ人の武器商人のスミスからガトリング砲を入手した。当時はスネル兄弟などの欧米の武器商人が欧米では旧式となった銃器を販売していたが、当時最新の兵器であったガトリング砲は日本に3門しか存在せず、そのうち2門を長岡藩が所持していたことになる。 戦場では河井自身もガトリング砲を撃って応戦したと伝えられており、攻撃を受けた当初の新政府軍部隊は大きな損害を出したとされるが、その効果は局地的なもので終わり、野戦においてガトリング砲を使用した河井の目論見は、コストパフォーマンスの悪い結果で終わった。 幕府が米国から購入し、新政府が引き継いだ軍艦「甲鉄」に搭載されていたガトリング砲は、1868年に同艦に対し榎本軍の軍艦「回天丸」の乗員が接舷斬り込み攻撃をかけた際の反撃に用いられたとされているが、『薩藩海軍史』には甲鉄の乗組員であった山県小太郎の「『ガトリング砲』にあらず、小銃をもって射撃せり」という発言が記載されており、実際に使われたかどうかは不明である。 1874年4月、北海道開拓使がアメリカから2挺を購入、8月にはユリシーズ・グラント大統領から明治天皇に対し1挺が贈呈されている。 その後発足した日本陸軍では、台湾出兵や西南戦争でガトリング砲が実戦投入された事が記録されている。 西南戦争の後は記録は途絶え、台湾総督府が反乱鎮圧用に常備していた事や、日清戦争・日露戦争で清軍・露軍が使用していたものを日本軍が鹵獲した記録などが散見される。 1920年にニコラエフスクがパルチザンに占領され日本人居留民、駐留日本軍がロシア人とともに殺戮された尼港事件の際には、中国海軍から日本軍砲撃のためにパルチザンに貸与されたガトリング砲が日本領事館攻撃に利用された。
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