日承上人・本能寺の変とは? わかりやすく解説

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日承上人・本能寺の変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:12 UTC 版)

「本能寺」記事における「日承上人・本能寺の変」の解説

後に本能寺帰洛すると、日承上人伏見宮5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となった天文14年1545年)、平安京東・西洞院大路、西・ 油小路、北・六角小路南・四条坊門小路にわたる一町120メートル四方(4町々)(旧本能小学校の北、元本能寺町付近)に寺地得て伽藍造立され中興なされると、子院30余院を擁した日隆開山以来尼崎本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後歴代貫主地方布教し、日承の時代には末寺畿内北陸瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺頂点とする本門教団成立した本能寺は、早くから種子島布教していたため、鉄砲火薬入手につき戦国大名との関係が深かった織田信長上洛中の宿所として妙覚寺使用することが多く本能寺宿所とすることは3回と稀であった。しかし、天正10年6月2日1582年6月21日)は息子織田信忠妙覚寺逗留しており、信長本能寺宿所としていた。その本能寺を明智光秀率い軍勢包囲し襲われるという本能寺の変起きその際兵火堂宇焼失した。『信長公記』では同寺で信長切腹したとしているが遺体発見されず、その最期は明らかではない。しかし一般的には生害地とされ、光秀破って京に入城した織田信孝は、16日焼け跡光秀の首と胴、その手勢3,000梟首を晒させて供養している。7月4日、信孝は同寺に御触を出して信長御屋敷として造成された焼け跡墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じている。

※この「日承上人・本能寺の変」の解説は、「本能寺」の解説の一部です。
「日承上人・本能寺の変」を含む「本能寺」の記事については、「本能寺」の概要を参照ください。

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