旅団への拡大―バルカン半島での戦闘
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「第1SS装甲師団」の記事における「旅団への拡大―バルカン半島での戦闘」の解説
西部戦線の戦いが終了したあと、LSSAHに対空砲(FLaK)大隊と、突撃砲(StuG)中隊が加わり、旅団規模に拡張されたが名称は連隊のままであった。 その後、1940年後半にあしか作戦の準備の為に連隊は強襲上陸の訓練を受けたが、英本土上陸作戦は中止となり、部隊はギリシアとバルカン半島侵攻計画の一案であるマリータ作戦の準備の為、ブルガリアに移動した。 1941年4月6日、作戦は発動されLSSAHはゲオルク・シュトゥンメ将軍指揮の第XXXX装甲軍団麾下の第9装甲師団に続いて進軍した。連隊はプリレップ近郊で国境を越え、ギリシア領深くへ進出した。 LSSAHは4月10日にヴェヴィを占領した。増強されたクルト・マイヤーSS少佐のLSSAH捜索大隊は、ヴェヴィ南西のクリスラ峠の抵抗を排除し、ギリシア軍と英連邦軍の撤退を防止するために、カストリアへ突破する任務を受けた。ギリシア第20師団の抵抗は激しく、いくつかの文献では、SSはマイヤーが自軍の兵士の足元に手榴弾を投げて、やっとクリスラ峠を占領できたかの様な記述となっていた。 フリッツ・ヴィット(de:Fritz Witt)SS少佐の第I大隊は、オーストラリア軍、英軍、ニュージーランド軍が強硬に防衛するヴェヴィ南のクリディ峠の掃討任務を受けた。増強されたカンプグルッペ ヴィット(ヴィット戦闘団)は道路から排除され、2日以上激しい抵抗に直面した。4月12日朝、正面から強襲を開始し、午後遅くには峠から敵は掃討された。LSSAH第I大隊は戦死37名と負傷95名の損耗で、敵に520名以上の捕虜と多数の損耗を与えた。 2つの峠の陥落により、ギリシア第1軍の主抵抗線は崩壊し、撤退を阻止する戦いへと移った。4月20日に、ピンダス山脈の1,500mの高さにあるメツォボ峠での激戦が終わり、ディートリッヒに対して、ギリシア第1軍司令官によりギリシア全軍が降伏した。英連邦部隊は、ギリシアに唯一残った同盟軍となり、ペロポネソス半島へコリントス運河を渡って撤収した。4月26日、LSSAHは撤退する英連邦軍を遮断する為、パトラス湾に到達した。ディートリッヒは連隊に、湾を渡りペロポネソスのパトラスの町を確保するよう命令を下した。輸送船舶が入手できなかった為、LSSAHは重装備の多くを残さざるを得なかったものの、釣り船を徴用し湾を渡ることに成功した。4月30日、英連邦軍の部隊は捕虜となるか脱出した。LSSAHはアテネでの戦勝パレードで名誉ある地位を占めた。 マリータ作戦の後、LSSAHはバルバロッサ作戦の為に集結している南方軍集団に加わるよう命令され北に移動した。
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