旅団から師団、最後の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/27 01:23 UTC 版)
「第34SS義勇擲弾兵師団」の記事における「旅団から師団、最後の戦闘」の解説
11月1日、ラントシュトームは、SS義勇擲弾兵旅団 「ラントシュトーム ネーダーランド」に再編成された。3つの大隊は、第83SS義勇擲弾兵連隊(SS-Freiwilligen-Regiment 83 "Landstorm Nederland")に、SS警備大隊「ノルトヴェスト」(SS-Wachbataillon "Nordwest")が第84SS義勇擲弾兵連隊に編成された。新しい人員の多くは、NSBの青年組織であるユートシュトーム」(Jeugdstorm)のメンバーであった。短時間で再編成を行い、ラントシュトームはヴァールとライン川の近くでの防衛を行なった。 1945年2月10日、ラントシュトームは再度その名称を変更した。第34SS義勇擲弾兵師団「ラントシュトーム ネーダーランド」(34. SS-Freiwilligen-Grenadier-Division "Landstorm Nederland")である。この名称変更にもかかわらず、実質的な戦力は2線級の旅団のままであった。師団は、第7降下猟兵連隊に代わり、ベツヴェとレーネンの間のライン川流域を守る命令を受けた。進撃を困難にさせるため人工的な氾濫を起こした上で、師団は、王立オランダ「イレーネ王女」旅団とイギリス第48師団、カナダ軍の混成部隊と対決した。だが師団の士気は低く、特に同国人(一部将兵の親類すらいた)で構成される王立オランダ軍との戦闘をためらう者が多かったという。 それにもかかわらず、師団はよく戦い、ゼッテンの近くで防衛線をよく確保した。しかし戦闘の連続は部隊の指揮を阻喪させ、ついにはドイツ人指揮官を暗殺し連合軍に降伏しようという計画まで立てられた。これについては事前に計画が漏れてしまい、責任者は軍法会議において銃殺刑となった。戦争が終盤に近づくにつれ、いよいよ部隊の士気、規律は失われていきついには市民への略奪、暴行に及び始める。特に第84SS義勇擲弾兵連隊は、あきらかな虐殺に関与していた。師団は最終的にオスタービーク近郊で1945年5月5日に降伏した。 一部の狂気に駆られた兵はヴィーネンダールの村で5月9日までオランダのレジスタンス部隊 (Binnenlandse Strijdkrachten)と戦闘をし、イギリス第49師団に降伏をした。内通者により、生存者のほとんどは収監され、一部は報復のため殺された。
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