旅団創設
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「第88独立狙撃旅団 (ソ連軍)」の記事における「旅団創設」の解説
独ソ戦勃発後の1941年7月中旬、ソビエト政府は、日本の北進に備えて、これらの野営地に基づき、第88独立狙撃旅団を編成することを決定した。旅団は、ハバロフスク市のヴャツコエ・ナ・アムーレ(Вятское-на-Амуре)に配置することが決定された。1942年7月21日付極東戦線司令官ヨシフ・アパナセンコ上級大将の命令第00132号に基づき、旅団の編成の期間は、同年7月28日から9月15日までの間と定められた。 部隊の充足は、東北抗日聯軍の中国兵と朝鮮兵の外、中国系・朝鮮系ソ連人、その他の少数民族(ナナイ人、エヴェンキ人等)から行われた。横暴な日本人指揮官(黄谷成男中尉)に耐え兼ね、殺害してソ連領に逃げてきた満州国軍第1団の兵士もいた。旅団隊員の大部分は中国人で、朝鮮人は10%に過ぎなかった。その後、後続してソ連領内に入った部隊も合流し、第88旅団の兵員数は、1,500人を超えた。 聯軍から来た多くの者は、ソ連の軍事学校の促成指揮課程か、管区少尉課程を受け、赤軍の階級を授与された(旅団長周保中は中佐、金日成は大尉)。通常、旅団の指揮官職には中国人が、副指揮官職には赤軍の将校が任命された。兵員は、赤軍の軍服を身に着けた。 第1大隊は第1路軍系、第2大隊と第4大隊が第2路軍系、第3大隊が第3路軍系の人員で構成されていた。
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