施設誘致の歴史とは? わかりやすく解説

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施設誘致の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 02:02 UTC 版)

浪江町」の記事における「施設誘致の歴史」の解説

太平洋戦争後の1955年昭和30年)に人口28,000人を数えた浪江町も、過疎財政難悩まされ、その打開が必要であった1960年昭和35年)頃、福島県原子力発電所誘致するに当たり、浪江町候補地となった最終的には同じ浜通り双葉郡双葉町大熊町に跨る地域決まり福島第一原子力発電所東京電力)として開所する。それまで農業出来ない冬には出稼ぎ行っていた大熊町双葉町など福島海岸地帯住民原発関連仕事をすることで一年中地元働けようになったため安定的な働き口かなりの補助金与えてくれた“福の神”とされていた。 折りしも、1969年昭和44年)に発足控えていた宇宙開発事業団ロケット発射場候補地探しており、浪江町の方から手を挙げたものの、「原子力発電所近郊発射場建設するのは危険」と判断され、この構想消滅したロケット発射場の次は「子供構想への参画目指したが、これも頓挫した。しかし、福島第一原子力発電所建設経済波及効果浪江町にもあり、1970年昭和45年)に約21,000人で底を打った人口1970年代末には23,000人に回復し作業員向けの宿泊施設バースナックなどが建てられた。 浪江町が何か誘致できる施設が無いかを調べていたところ、東北電力浪江町小高町現在の南相馬市小高区)に跨る地域原子力発電所誘致持ちかける当時東北電力宮城県女川原子力発電所建設計画進めており、「女川町原発付随する交付金雇用等を取られてしまう」という対抗心もあって、浪江町議会賛成した当時公害対す批判的な世論芽生え始めた時期でもあり、地元自民党支持層分裂自民党原発誘致反対派他党と組まず、長らく反対運動続けることになる。1982年昭和57年)の雑誌対談示され概要図では原子炉は4基となっていた(のちの浪江・小高原子力発電所計画。こちらは東日本大震災後2013年中止発表された)。上述宿泊施設浪江町による水道などの社会資本投資原子力発電所建設見越した先行投資でもあったため、1980年代末時点17人まで減ったものの団結力高め予定地に共同登記をしていた反対運動による遅延は、これら商工業者莫大な損失を強いるものとなった原子力発電所建設進まないなか、近隣自治体新地発電所原町火力発電所などが建設されていった

※この「施設誘致の歴史」の解説は、「浪江町」の解説の一部です。
「施設誘致の歴史」を含む「浪江町」の記事については、「浪江町」の概要を参照ください。

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