新潟日報糾弾事件
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1973年11月、新潟日報社内の過激派系の社員が「狭山事件の当初報道が、警察情報により、石川青年を真犯人としていたのは許せない」と編集局長たちを数回にわたり糾弾した。1964年、狭山裁判の一審当時に新潟日報が共同通信の配信記事を使ったのが突如約10年もさかのぼり問題にされたものである。 過激派社員は「狭山事件の当初の報道が部落差別的でないというのなら、それを検討する場をつくれ。解放同盟の声を聞く機会をつくれ」と要求し、社内紛争に発展。1974年3月には19人の社員が譴責などの処分を受け、1974年6月には暴力事件で社側が告訴する事態に発展した。 1974年5月16日、新潟日報上越支社で、狭山裁判の支援署名を取りに来た社員に対し、支社長が署名を保留しつつ「あの人たちの中に日本人以外の人が含まれているのか」と質問すると、「あの人たちは日本人か」という意味に取られ、部落解放同盟上越支部から糾弾を受けた。 これを受け、6月28日、新潟日報社は編集局長名で「弁解書」を部落解放同盟上越支部に送付し、次のことを約束した。 貴同盟ならびに貴支部が、県内で行う行事その他を取材し、紙面に載せることを強化する。 このため、特に上越支社報道部には貴同盟の担当者を設けるが、県単位の組織ができたときは本社報道部にも同様の記者を置く。 文化欄や解説欄などで、部落差別に関する評論や座談会、研修会などを積極的に取り上げていく。 もともと新潟日報では、1970年6月、県教育界の堕落を批判した記事における「常識通じゃない特殊部落」との表現が部落解放同盟新潟県連から問題視され、糾弾に発展し、反省文の発表と社内研修会を経て、「部落」の語を「地区」と言い換えることが検討された経緯があった。 1974年10月、部落解放同盟主催の部落解放研究全国集会にて、「新潟日報社における、マスコミ労働者が、かつての狭山報道を中心に、内部から、マスコミのあり方をただしている闘争は注目に値する」と過激派社員が高く評価された。ただし過激派社員は停職処分と告訴を受け、4人が逮捕されている。
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