新法・旧法の争いとは? わかりやすく解説

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新法・旧法の争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:21 UTC 版)

北宋」の記事における「新法・旧法の争い」の解説

結局英宗濮議混乱に足を取られたまま治平4年1067年)に4年短い治世崩御。子の趙頊(神宗)が即位する20歳青年皇帝神宗英宗代に赤字転落した財政改善遼・西夏に対す劣位挽回などを志し、それを可能にするための国政改革を行うことのできる人材求めていた。 白羽の矢立ったのが王安石である。王安石青苗法募役法などの新法呼ばれる政策行い中小農民保護生産拡大軍事力強化などを図った。しかしこの新法それまで兼併大商人勢力利益大きく損ねるものであり、兼併出身母体としていた士大夫層の強い反発を受けることになった新法推進しようとするのは主に江南地方出身士大夫でありこれを新法派新法反対するのは主に華北出身士大夫でありこれを旧法派と呼ぶ。新法派領袖王安石に対して旧法派代表として司馬光蘇軾らの名が挙がる王安石旧法派左遷して新法推進するが、相次ぐ反対に神宗動揺し新法派内での争いもあり、王安石新法完成見ないまま隠棲した。 神宗王安石がいなくなって新法続け、その成果により財政健全化した。それを元に神宗元豊の改革呼ばれる官制改革行い西夏に対して攻撃を行うも失敗終わった新法により表面上は上手くいっているかに見えたが、その裏旧法派たちの不満は深く根を張っていた。 元豊8年1085年)、神宗崩御。子の趙煦(哲宗)が即位する。このとき哲宗はわずか十歳であり、英宗皇后であった宣仁太后垂簾聴政を行う。宣仁太后中央離れていた司馬光宰相として新法徹底的な排除を行わせた(元祐更化)。司馬光宰相になって1年足らず死去王安石はその少し前に死去している。宣仁太后時代旧法派天下であったが、宣仁太后元祐8年1093年)に死去し哲宗親政始めると再び新法復活して新法派天下となったこの間新法派旧法派とも最早政策理念など関係無し対立相手が憎いゆえの行動となってしまい、新法旧法が度々入れ替わることで国政混乱した一連の政治的争いを新法・旧法の争いと呼ぶ。

※この「新法・旧法の争い」の解説は、「北宋」の解説の一部です。
「新法・旧法の争い」を含む「北宋」の記事については、「北宋」の概要を参照ください。

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