斉興の後継者問題と藩内対立の激化とは? わかりやすく解説

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斉興の後継者問題と藩内対立の激化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:38 UTC 版)

薩摩藩の天保改革」の記事における「斉興の後継者問題と藩内対立の激化」の解説

豪に信任され藩政改革主導開始した調所は、重豪が亡くなった後は藩主斉興の信任受けて改革推進し続けていたが、薩摩藩では斉興の後継者問題持ち上がりだしていた。斉興の嫡子島津斉彬であるが、嘉永元年1848年)には斉彬は数え40歳になったが、藩主地位を父、斉興から譲られることはなかった。斉彬になかなか藩主の座が回ってこない背後には、斉興の愛妾お由羅調所策謀があると噂されていた。斉興の寵愛受けたお由羅島津久光生んでいた。お由羅調所調所側近たちとともに斉興に嫡子斉彬のことを讒言し、斉彬の廃嫡、そして久光擁立しようとしているとの評判が立ち、斉彬や藩内の斉彬派は神経尖らせていた。 調所は斉彬ではなく久光後継者として相応しいと考えていた。曾祖父重豪と同様に蘭学を好む斉彬は蘭学趣味巨費をつぎ込み、藩財政危うくすると判断していた。しかし外圧への対応が喫緊の課題としてのしかかって来た幕末期蘭学明るい斉彬は藩内外幕閣からも困難な時代対応できるニューリーダーとして期待する声が高まっていた。約20年藩政改革主導して成果挙げていた調所権力強大であったが、嫡子斉彬を擁立する勢力もまた根強かった薩摩藩内で調所派と斉彬派との対立起きるのは避けよう無かった調所改革自体対する不満も高まりつつあった。天保2年から天保11年までの10年間の改革異なり天保12年以降後期改革農政改革給地高改正軍制改革藩士たちの利害直結する内容のものになっていた。また藩士のみならず農民町人たちにとっても後期改革影響大きかったこれまでの既得権であった役儀上の役得奪われ給地高が削られる者たちが現れ軍制改革によってこれまで習得してきた武芸無用の長物となる中で、藩士たちの中に改革対する不満が鬱積していく。しかも改革主任調所元はといえば茶坊主であり、改革ブレーン多く下士出身町人あがりの者もおり、成り上がり者たちが藩政壟断していると不満を増幅させた。 このような中で調所やその側近たちの様々な悪評乱れ飛ぶようになった後述のように調所本人腐敗汚職無縁であった考えられるが、調所ブレーンたちの中には改革遂行するに当たり行使した権限悪用し私腹を肥やす者もいた。しかも嘉永元年1848年11月調所側近一人である海老原清煕に、農政改革尽力した功により50石の加増が行われた。同時期に調所にも700石の加増があったと考えられ給地高改正持高制限加えられ藩士たちがいる中で、調所一派加増与っていると反発の声に油を注ぐことになった中でも西郷隆盛大久保利通若手藩士たちは調所改革政治、そして調所対す反発強めていた。彼らが範としたのがかつて斉宣の改革主導し、重豪によって弾圧され近思録派、そして近思録であった

※この「斉興の後継者問題と藩内対立の激化」の解説は、「薩摩藩の天保改革」の解説の一部です。
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