斉興の後継者問題と藩内対立の激化
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「薩摩藩の天保改革」の記事における「斉興の後継者問題と藩内対立の激化」の解説
重豪に信任され藩政改革の主導を開始した調所は、重豪が亡くなった後は藩主斉興の信任を受けて改革を推進し続けていたが、薩摩藩では斉興の後継者問題が持ち上がりだしていた。斉興の嫡子は島津斉彬であるが、嘉永元年(1848年)には斉彬は数え40歳になったが、藩主の地位を父、斉興から譲られることはなかった。斉彬になかなか藩主の座が回ってこない背後には、斉興の愛妾、お由羅と調所の策謀があると噂されていた。斉興の寵愛を受けたお由羅は島津久光を生んでいた。お由羅は調所や調所の側近たちとともに斉興に嫡子斉彬のことを讒言し、斉彬の廃嫡、そして久光を擁立しようとしているとの評判が立ち、斉彬や藩内の斉彬派は神経を尖らせていた。 調所は斉彬ではなく久光が後継者として相応しいと考えていた。曾祖父重豪と同様に蘭学を好む斉彬は蘭学趣味に巨費をつぎ込み、藩財政を危うくすると判断していた。しかし外圧への対応が喫緊の課題としてのしかかって来た幕末期、蘭学に明るい斉彬は藩内外、幕閣からも困難な時代に対応できるニューリーダーとして期待する声が高まっていた。約20年間藩政改革を主導して成果を挙げていた調所の権力は強大であったが、嫡子斉彬を擁立する勢力もまた根強かった。薩摩藩内で調所派と斉彬派との対立が起きるのは避けようも無かった。 調所の改革自体に対する不満も高まりつつあった。天保2年から天保11年までの10年間の改革と異なり、天保12年以降の後期改革は農政改革、給地高改正、軍制改革と藩士たちの利害に直結する内容のものになっていた。また藩士のみならず農民、町人たちにとっても後期改革の影響は大きかった。これまでの既得権であった役儀上の役得を奪われ、給地高が削られる者たちが現れ、軍制改革によってこれまで習得してきた武芸が無用の長物となる中で、藩士たちの中に改革に対する不満が鬱積していく。しかも改革主任の調所は元はといえば茶坊主であり、改革のブレーンの多くは下士出身で町人あがりの者もおり、成り上がり者たちが藩政を壟断していると不満を増幅させた。 このような中で調所やその側近たちの様々な悪評が乱れ飛ぶようになった。後述のように調所本人は腐敗汚職に無縁であったと考えられるが、調所のブレーンたちの中には改革を遂行するに当たり行使した権限を悪用して私腹を肥やす者もいた。しかも嘉永元年(1848年)11月、調所の側近の一人である海老原清煕に、農政改革に尽力した功により50石の加増が行われた。同時期に調所にも700石の加増があったと考えられ、給地高改正で持高制限を加えられた藩士たちがいる中で、調所一派は加増に与っていると反発の声に油を注ぐことになった。中でも西郷隆盛、大久保利通ら若手藩士たちは調所の改革政治、そして調所に対する反発を強めていた。彼らが範としたのがかつて斉宣の改革を主導し、重豪によって弾圧された近思録派、そして近思録であった。
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