斉破燕の戦い
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紀元前316年、燕王噲は王位を子之に譲った。紀元前314年、燕の将軍の市被が太子平を擁して子之を攻撃し、宮殿を包囲した。子之の軍が市被を撃破すると、市被は態度をひるがえして太子平を攻撃し、市被は戦死した。この内乱により燕は荒廃し、これを機とみた孟子の献策で斉の宣王が将軍の匡章を派遣して燕を攻撃した。国都が陥落して、燕王噲は殺害され、子之は逃亡した。後に捕らえられて殺害された。斉軍による略奪により燕の人民は反乱を起こした。
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斉破燕の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 03:36 UTC 版)
紀元前314年、2年前に燕王噲から燕の王位を継いでいた元宰相の子之に対して、燕王噲の子の太子平が将軍の市被と共に叛乱を起こし、燕の国内は内戦状態に陥った。子之の反撃で叛乱は鎮圧され、太子平は市被に裏切られ、市被も戦死した。このため、子之の圧政で荒れていた燕の国内はさらに混乱が進み、好機と捉えた斉の宣王は匡章に命じて燕に侵攻させた。 匡章率いる斉軍は燕の公子職(後の昭王)の支援と称し、燕の国都の薊を陥落させ、子之は逃亡し燕王噲は混乱の中で斉軍に殺害され、公子職の軍も斉軍に攻撃を受け全土は斉に併合されたため燕は公子職が斉への服属を条件に王位に就くまで一時的に滅亡することとなった。
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