文化の境界を越えて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 16:06 UTC 版)
「アシア・ジェバール」の記事における「文化の境界を越えて」の解説
ジェバールは創作活動、教育・研究活動だけでなく、自作の朗読会や講演会でドイツ、イタリア、イギリス、アメリカなどを訪れ、1983年から1989年までの6年間は、ミッテラン政権下で経済・財政・予算大臣、国防大臣、首相を歴任したピエール・ベレゴヴォワからの依頼で、社会行動基金(FAS)理事会にアルジェリア移民代表として参加した。 2005年6月16日にアカデミー・フランセーズの会員に選出された。マルグリット・ユルスナールが1980年に女性で初めてアカデミー・フランセーズの会員に選出されてから25年目にして5人目、すなわち、400年近いアカデミーの歴史において5人目の女性会員である(2018年までに9人の女性が選出された)。 ジェバールは、アカデミー・フランセーズ会員就任式の演説で、「フランス帝国時代の北アフリカは、イギリス、ポルトガル、ベルギーの植民地だったアフリカの他の地域と同様に、一世紀半にわたって、その自然の富を奪われ、社会的基盤を破壊された」、そしてアルジェリアでは、「そのアイデンティティに関わる二つの言語、長い歴史をもつ世俗のベルベル語とアラビア語が教育から排除された」、エメ・セゼールはすでに1950年に『植民地主義論』において、「アフリカやアジアでの植民地戦争がいかにヨーロッパを「非文明化」し、「野蛮化」したか」を示していたことを指摘し、最後に、「私は(ダンテの『神曲』の)至高天(エンピレオ)でフランソワ・ラブレーとイブン・スィーナーが対話している様子を思い描いている」と締めくくった。 2015年2月6日、パリにて死去、享年78歳。ティパザ県のシェルシェル墓地に埋葬された。
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