撮影者・王小亭の証言
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「上海南駅の赤ん坊」の記事における「撮影者・王小亭の証言」の解説
第二次上海事変で、ハースト支局長のジャーナリスト王小亭や他の映像ジャーナリスト(ハリソン・フォーマンやジョージ・クライニュコフなど)は、戦争の惨状をカメラに収めていた。王はアイモで報道映像を撮り、ライカで写真を撮影していた。 1937年の8月28日の午後2時に大日本帝国海軍が上海を空爆する予定である、との情報を知った王らジャーナリスト達は、空襲を映像に収めるためにスワイヤーのビルに集まった。 午後3時、飛行機が来る様子がなかったので王を除くジャーナリストは撤退した。午後4時、16機の日本軍の飛行機が来襲、爆撃し、上海南駅で杭州行きの列車を待っていた市民たちが多く死傷した。避難するため集まった人々は婦女子が多かったとも伝えられるが、日本機の操縦士は彼ら・彼女らを兵隊らと見誤ったとも言われる。王小亭は急いで彼の車で廃墟となった上海南駅に駆け付けた。彼が駅についたときの惨状と混乱を、彼はこう語っている。 「それはひどいありさまでした。人々はまだ起き上がろうとしていました。死者や負傷者が線路やプラットホームを越えて散らばっていました。手足がそこらじゅうにありました。私の仕事だけが見たものを忘れさせてくれました。ふと、私の靴が血で浸されているのに気付き、私は映写機の再装填をやめました。線路まで歩いていき、頭上の燃えている橋を背景に長回しのシーンを撮りました。そこで線路から赤ん坊を拾い上げプラットホームに運んでいる男性を見つけました。彼は別の酷く傷ついた子供のところに戻って行きました。その母親は線路で死んで横たわっていました。私がこの悲劇を映画に撮っているときに、飛行機が戻ってくる音が聞こえました。即座に残った映画フィルムで赤ん坊を撮影しました。私は赤ん坊を安全なところへ運ぶために走って行きましたが、そのとき赤ん坊の父親が帰ってきました。爆撃機が頭上を横切りました。爆弾は落ちてきませんでした。」。 やけどを負い、けがをして泣く赤ん坊の名前も性別も、この後生き残ったのかも不明のままである。翌朝、王はチャイナ・プレスにフィルムを持っていき、写真を引き伸ばしてマルコム・ロスホルトに、見るよう要請した。彼は「翌朝の新聞が、上海南駅のプラットホームには内陸部への避難を待つ約1800人がおり、そのほとんどが女子供だったこと、日本の飛行士たちがそれを部隊の移動と勘違いしたと報道した」と語った。生き残った人は300人に満たないという。
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