撮影者・王小亭の証言とは? わかりやすく解説

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撮影者・王小亭の証言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 16:01 UTC 版)

上海南駅の赤ん坊」の記事における「撮影者・王小亭の証言」の解説

第二次上海事変で、ハースト支局長のジャーナリスト王小亭や他の映像ジャーナリスト(ハリソン・フォーマンやジョージ・クライニュコフなど)は、戦争惨状カメラ収めていた。王はアイモ報道映像撮りライカ写真撮影していた。 1937年8月28日午後2時に大日本帝国海軍上海空爆する予定である、との情報知った王らジャーナリスト達は、空襲映像収めるためにスワイヤーのビル集まった午後3時飛行機が来る様子がなかったので王を除くジャーナリスト撤退した午後4時16機の日本軍飛行機来襲爆撃し上海南駅杭州行き列車待っていた市民たちが多く死傷した避難するため集まった人々婦女子多かったとも伝えられるが、日本機の操縦士は彼ら・彼女ら兵隊らと見誤ったとも言われる王小亭急いで彼の車で廃墟となった上海南駅駆け付けた。彼が駅についたときの惨状混乱を、彼はこう語っている。 「それはひどいありさまでした。人々はまだ起き上がろうとしていました死者負傷者線路プラットホーム越えて散らばっていました手足そこらじゅうありました。私の仕事だけが見たものを忘れさせてくれました。ふと、私の靴が血で浸されているのに気付き、私は映写機再装填やめました線路まで歩いていき、頭上燃えている背景長回しシーン撮りました。そこで線路から赤ん坊拾い上げプラットホーム運んでいる男性を見つけました。彼は別の酷く傷ついた子供ところに戻って行きました。その母親線路死んで横たわっていました。私がこの悲劇映画撮っているときに、飛行機戻ってくる音が聞こえました即座に残った映画フィルム赤ん坊撮影しました。私は赤ん坊安全なところへ運ぶために走って行きましたが、そのとき赤ん坊父親帰ってきました爆撃機頭上横切りました。爆弾落ちてませんでした。」。 やけどを負い、けがをして泣く赤ん坊の名前も性別も、この後生き残ったのかも不明のままである翌朝、王はチャイナ・プレスにフィルム持っていき、写真引き伸ばしてマルコム・ロスホルトに、見るよう要請した。彼は「翌朝新聞が、上海南駅プラットホームには内陸部への避難を待つ約1800人がおり、そのほとんどが女子供だったこと、日本飛行士たちがそれを部隊の移動勘違いした報道した」と語った生き残った人は300人に満たないという。

※この「撮影者・王小亭の証言」の解説は、「上海南駅の赤ん坊」の解説の一部です。
「撮影者・王小亭の証言」を含む「上海南駅の赤ん坊」の記事については、「上海南駅の赤ん坊」の概要を参照ください。

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