接敵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/16 17:28 UTC 版)
「ホーエンフリートベルクの戦い」の記事における「接敵」の解説
この戦闘に参加したプロイセン軍は、オーストリア継承戦争におけるプロイセン軍のひとつの完成形である。父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世時代から、プロイセン軍は精強と言われながらしばらく実戦経験が無く、実際の戦場においてどれほど有効であるか不明なままであった。戦争勃発後、プロイセン軍には騎兵における弱点などが発見され、大王は戦争中も休戦中もその改善に努力していた。その成果がこの戦いで発揮された。 6月3日午後9時、大王は全軍に出撃を命じた。この際シュヴァイトニッツの陣営は天幕を張ったままにし、篝火も大いに焚いて出撃を悟られないようにし、行軍中の音を消すために武器は布で包み、砲車の車輪には藁を括りつけるという徹底ぶりであった。本隊の行軍開始に先駆けてデュ・ムーランの前衛部隊が展開してシュトリーガウまでの進路を確保し、敵哨兵の接近を阻止した。デュ・ムーランのフザールと連合軍の哨戒騎兵はたびたび接触したが、連合軍首脳はこれを単なる斥候と見なして誰も気にしなかった。 大王の作戦は、まず敵左翼、北のザクセン軍に集中攻撃をかけることによって奇襲を開始し、敵の連携準備が整わないうちにザクセン軍を敗走させてしまい、そのうえで西のオーストリア軍を撃破することだった。このためプロイセン軍は夜のうちにシュトリーガウの南を東西に走るシュトリーガウ川を渡りきることが必要だった。日付が変わって6月4日午前0時ごろ、プロイセン軍はシュトリーガウ川の南岸に到着、ここで兵士に2時間の休息を与えた。この戦いでの最初の困難はこの川の渡河だった。シュトリーガウ川は小さな川で渡河自体は難しくないものの、夜中に、敵に気付かれないよう静かに渡河するのはなかなか難しいことだった。しかも、オーストリア軍の哨兵線が大王の予想よりずっと東に押し出していたため、敵の直近でこれを行わなければならなかった。プロイセン軍が無事に渡河を成功させることが出来たのはかねてよりの訓練と規律の賜物とされる。
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