行軍開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/08 00:28 UTC 版)
1945年4月24日午前5時30分、グスタフ・クルケンベルクSS少将とアンリ・フネSS義勇大尉のフランスSS突撃大隊はベルリン北方のカルピン(Carpin)を出発し、ベルリン目指して行軍を開始した。戦火とソビエト赤軍から逃れるためにドイツ北部地域を目指す難民とドイツ軍兵士にとって、ベルリンに向かって進むフランス人義勇兵の車列は目を疑う存在であった。 この時、ピエール・ロスタン武装上級曹長のフランスSS突撃大隊第3中隊は順調に行軍していたが、ある地点において、隊列の最後尾を進んでいたラウル・ジノー武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Raoul Ginot)の第1小隊を輸送していたトラックが故障してしまった。 ジノーのトラックは前方車輌とケーブルで繋がれて牽引され、移動を再開することができた。しかし、同様に故障した2輌のトラックはこれ以上の行軍が不可能となり、カルピンへ引き返した。行軍を断念して引き返したトラックが輸送していたフランス人義勇兵たちの中には、ジャック・シャヴァン武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Jacques Chavant)の第3中隊第3小隊も含まれていた。 さらに、同日午後3時頃にはフランスSS突撃大隊の車列が渡ろうとした橋が国民突撃隊によって誤爆され、フランス人義勇兵たちは車を利用した行軍が不可能となった。グスタフ・クルケンベルクSS少将は全ての物資をトラックから降ろさせた後、トラックの運転手には重傷者を乗せてカルピンまで戻るよう命令した。 ベルリンまでの残りの道を徒歩で行軍せざるを得なくなったフランスSS突撃大隊は、クルケンベルクとアンリ・フネが先頭を進み、その後ろにヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉(SS-Ostuf. Wilhelm Weber)の戦術学校、ピエール・ミシェルSS義勇中尉(SS-Frw. Ostuf. Pierre Michel)の第2中隊、ロスタンの第3中隊、ジャン・オリヴィエSS義勇曹長(SS-Frw. Oscha. Jean Ollivier)の第4中隊、ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉(SS-Frw. Ustuf. Jean-Clément Labourdette)の第1中隊が続いた。 ベルリンまでの距離が縮まりつつあった時、地元のドイツ軍補給部隊の将校がクルケンベルクに対し、フランス人義勇兵たちの助けにするため自分の集積所の補給物資を彼らに「強奪」させても構わないと申し出た。一刻でも早くベルリンに向かおうとするクルケンベルクはこの申し出を断ったが、ロスタンは賢明にも部下数名を集積所に向かわせ、補給物資を入手していた。 そして4月24日午後10時頃、フランスSS突撃大隊はベルリン市内のベルリン・オリンピアシュタディオン近隣の国立競技場(Reichssportfeld)に到着した。 休養を取った後、ベルリン市内で新たな車を与えられたフランスSS突撃大隊は移動を再開し、4月25日午後にはノイケルン区に到着した。この日、ロスタンの第3中隊は1軒のパブの地下室を寝床として使用したが、幸運にも同地下室にはビールが貯蔵されていた。
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