授刀衛の成立とは? わかりやすく解説

授刀衛の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 23:30 UTC 版)

授刀衛」の記事における「授刀衛の成立」の解説

慶雲4年707年)に授刀舎人統括する令外官として授刀舎人寮設置される。この時点授刀舎人寮五衛府より上格の軍事組織という位置づけ与えられていたが、神亀5年728年)に授刀舎人寮中衛府変わり令外官ながら五衛府より格上の6番目の衛府となる。この時点授刀舎人記録から一旦姿を消すが、天平18年746年)に騎舎人の名を授刀舎人改めるという形で授刀舎人第二次授刀舎人)が復活した。この第二次授刀舎人任務皇太子阿倍内親王(後の孝謙称徳天皇)の警衛であったと言われている。そして天平宝字3年759年)に第二次授刀舎人統括する7番目の衛府として授刀衛設立された。 授刀舎人性格明かではないが、第一次および第二次授刀舎人共通して天皇皇太子近侍して警衛などを担う役割であり、天皇私的な警護のような性格持っていたとも考えられている。またその地位文官である大舎人の下で武官である兵衛の上とされている。その出身階層郡司層の地方豪族の子弟が中心で、兵衛近似している事が知られている。騎舎人については第二次授刀舎人への変更の際の記録にのみ記録が残る存在であり、より実態はっきりしないが、その名から騎乗する舎人であると思われ天皇行幸随伴して警衛儀仗を担う存在であったとする説もある。 また授刀舎人組織して中衛府授刀衛という五衛府の上位となる二つ衛府設置した事については、主に二つ理由指摘されている。 一つ目は、五衛府弱体化伴って、それを補完する軍事組織が必要となったとする考え方である。当時五衛府のうち左右衛士府および衛門府一部地方軍団から出向させられてきた農民出身の兵からなっていたが、彼らは元から戦意が低い上に兵としての素養乏しく、また本来の任務以外の労役投入されたり、規定反して長年月兵役強いられることから逃亡兵が続出していた。こうして左右衛士府衛門府弱体化するのに応じて左右兵衛府が彼らの役割補完することが必要となり、更にその穴埋めとして天皇直近の警衛部隊が必要となったとされるもう一つ理由は、当時朝廷支配しつつあった藤原氏、特に藤原仲麻呂が自らの自由になる私兵存在求めたからであるという考え方である。既に藤原氏大伴氏などの昔からの軍事系有力氏族駆逐し五衛府掌握していたが、より自由になる存在欲しかったではないかとされている。藤原仲麻呂の乱以前中衛府授刀衛の長は藤原氏がほぼ独占している。ただし、乱の3か月前に藤原仲麻呂娘婿であった授刀藤原御楯急死したことで、仲麻呂統制下から離れてしまっている。

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