拝上帝教の誕生
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広東省広州府花県福源水村出身で後に官禄布村に移った客家人。農村の読書人の貧しい家庭に生まれ科挙及第を目指して役人になろうとしたが、1828年に県試と府試に失敗、1834年に院試に失敗、1837年に三度目の落第をしており、失意の日々を送っていた。このときの屈辱で熱病となり病床に就いている。その病床で、老人から現世の妖魔を取り除くべく派遣したとの夢を見る。しかし科挙に執着していた洪秀全は6年後の道光23年(1843年)春に再度郷試に臨むも落第した。この時梁発の『勧世良言』の影響を受けた洪秀全は孔孟の書を捨て、キリスト教へ改宗し儒生としての人生に終止符を打った。『聖書』の学習経験のなかった洪秀全は、自らの解釈によるキリスト教の教義として拝上帝教を説き始めた。拝上帝教は入信すれば男女問わず平等であり、男性同士は兄弟、女性同士は姉妹とし、ヤハウェを天父、キリストを天兄と称した。教義は三位一体説と大きく異なり、洪秀全をキリストの弟、ヤハウェの次男とし、人間界に至って神の意思を実行する者としている。 当初広州付近で布教を行ったが成功はしなかった。道光24年(1844年)、洪秀全は馮雲山とともに広西に移動して布教活動を行い、その地での信徒を増やしていった。道光25年(1845年)から道光26年(1846年)の間に『原道醒世訓』、『原道覚世訓』、『百正歌』等の作品を発表している。道光27年(1847年)初め、広州に戻った洪秀全は教会で数カ月教義を学習し洗礼を求めたが、教会は教義に対する認識が不十分として拒絶した。洗礼を受けることが叶わなかった洪秀全は再び広西に向かい馮雲山と合流、拝上帝会の規則や儀式を次々と制定していった。勢力を拡大した拝上帝会は、キリスト教と相反する清朝と次第に対立するようになる。
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