戦闘に至る背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/21 02:59 UTC 版)
当時、セルマは南部の軍需品産業の中心であり、莫大な物資や弾薬を製造し、装甲艦CSSテネシーまで建造した。セルマの鉄工所と製鉄所は、バージニア州リッチモンドのトレデガー鉄工所に次いで、南部では2番目の武器生産拠点と見なされていた。このように生産能力が集中する戦略的な位置づけにあったので、南北戦争の後半では北軍によるアラバマ州襲撃の標的になった。 1865年3月30日、ウィルソン将軍がジョン・T・クロクストン将軍の旅団を派遣して、アラバマ州タスカルーサの南軍施設をすべて破壊しようとした。ウィルソンの部隊は南軍の密偵を捕まえ、フォレスト将軍がその分散した部隊の勢力や配置を詳述した文書を運んでいたことが分かった。ウィルソンは1個旅団を送ってセンタービルでカハバ川に架かる橋を破壊させ、それでフォレストの援軍の大半がこの地域に入れないようにした。ウィルソンはフォレストの部隊と走りながらの戦闘を始め、それはセルマの町が陥落した後まで続くことになった。フォレストは中部テネシー方面作戦で敗北した後で、その配下の部隊を再構成するために、ミシシッピ州、アラバマ州、テネシー州に散開させていた。3月下旬の数日間は部隊を統合するために苦闘していたが、そこにウィルソンの騎兵隊が南下してきた。 4月1日は午前中一杯に小競り合いが続いた後の午後、ウィルソンの前衛部隊がエベネザー教会でフォレストの戦列と遭遇した。ランドルフ道路とセルマの幹線道が交差するあたりだった。フォレストは全軍をもってあたればウィルソンの部隊に対抗できると見ていた。しかし、洪水による遅れや、それ以前に敵と遭遇したこともあって、フォレストの下に集まった兵は2,000名足らずであり、その多くは古参兵ではなく、老人と少年で構成された訓練も足りない民兵だった。 勢力も武装も劣った南軍は、北軍の多勢の騎兵や砲兵が戦場に配置される中で、1時間以上も勇敢に戦った。フォレスト自身もサーベルを持った北軍の大尉に傷つけられたが、フォレストはそのレボルバー拳銃で大尉を射殺した。最後は北軍騎兵の突撃で南軍民兵隊が崩壊し、フォレスト隊はその右側面を衝かれた。フォレストは厳しい圧力を受けながらの撤退を強いられた。この戦闘はウィルソン軍の動きを大きく遅らせることも、損傷を与えることもできなかった。
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