戦闘に至る経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/19 23:20 UTC 版)
「ラークシャスブヴァンの戦い」の記事における「戦闘に至る経過」の解説
1761年1月、マラーター同盟軍はアフガン勢力ドゥッラーニー朝にパーニーパトの地で敗れ、大打撃を被り、その半年後にマラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオが死亡した。 その後、王国の宰相位は息子のマーダヴ・ラーオが継承したが、バーラージーの弟ラグナート・ラーオは宰相位を要求したことから、両者の間に対立が発生した。マラーター王国と長年対立してきたデカン地方のニザーム王国はこれに介入し、問題は複雑化した。 同年11月にラグナート・ラーオは降伏したが、マラーター王国とニザーム王国との対立は続き、1763年3月7日にマーダヴ・ラーオはニザーム王国への遠征を行った。軍勢にはラグナート・ラーオをはじめ、ヴィサージー・トリンバク、ヤシュワント・ラーオ・ヴァブレーなどが付き従った。 一方、ニザーム軍もこれに迎撃する構えを見せ、ヴィッタル・スンダルを主将に、イスマーイール・ハーン・パンニー、ラグージー・ジャーダヴ・ラーオ、ニンバールカル・カルデーカルを指揮官とする軍隊を派遣した。また、軍勢にはシャルル・ジョゼフ・パティシエ・ド・ビュシーによって率いられたフランス軍もいた。
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