戦後、そして日本返還後の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 09:19 UTC 版)
「小笠原諸島の自然」の記事における「戦後、そして日本返還後の問題」の解説
第二次世界大戦の末期の1944年、7000名近くの小笠原諸島在住の島民たちは強制疎開により小笠原を離れた。そして終戦後、アメリカの統治下に入った小笠原諸島に帰島を許されたのは、19世紀、小笠原に最初に定住した欧米系島民の子孫100名あまりのみであり、父島以外の島々はほぼ無人島となった。その結果、戦前農地であった場所の多くにムニンヒメツバキや外来種のリュウキュウマツによる二次林が広がり、かつての人家跡にはやはり外来種のギンネムが侵入した。そして飼い主がいなくなったことでヤギが野生化し、特に聟島列島では激しい食害によってほとんどの森林が消滅してしまった。 1968年6月、小笠原諸島は日本に返還された。日本復帰後、かつて小笠原諸島で生活していた人々が帰島を始めたが、父島、母島と自衛隊の基地がある硫黄島と南鳥島以外は無人島の状態が続いた。父島と母島は小笠原復興特別措置法によって復興資金が投入され、港湾や道路等の生活基盤の復興が進められていったが、その中で道路の拡張等で貴重な固有植物の生育地が消滅するなどといった問題が発生した 小笠原諸島の開発と自然保護をめぐる問題の中で、これまで最も大きな問題となったのが空港の建設問題であった。1988年に当時の鈴木俊一都知事が空港建設を公式に表明し、まず兄島に空港建設が計画されたが、兄島には小笠原諸島独自の乾性低木林が最も良好な形で残されており、調査の結果、多くの陸産貝類やオガサワラハンミョウなどの貴重な固有種が生息していることが判明したこともあって兄島での空港建設は中止された。変わって父島の時雨山付近が候補地とされたが、これも小笠原固有種のムニンツツジの産地を破壊するなど生態系に大きなダメージを与えることと、折からの景気低迷の中、巨費を投じて小笠原に空港を作ることの是非が問われ、2002年になって石原慎太郎都知事によって時雨山案も撤回されることになった。
※この「戦後、そして日本返還後の問題」の解説は、「小笠原諸島の自然」の解説の一部です。
「戦後、そして日本返還後の問題」を含む「小笠原諸島の自然」の記事については、「小笠原諸島の自然」の概要を参照ください。
- 戦後、そして日本返還後の問題のページへのリンク