戦後、そして現在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/21 12:15 UTC 版)
「スティーブストン」の記事における「戦後、そして現在」の解説
戦後、抑留から解放された人々のうちスティーブストンに帰ってきたのは一部であったが、今日も大きな日系人コミュニティが存在しており、発展を続けている。たとえばこの村の柔道と格闘技の道場は抑留からの解放後に発展したものである。 1954年、当地の水産加工会社BCパッカーズ(BC Packers)の社長であるケン・フレーザーは、スティーブトンの日系カナダ人漁師に共同コミュニティセンター建設のための多大な寄付を行った(これは結局スティーブストン・コミュニティセンターとなった)。合意内容には、日系漁師の互助組合が柔道場を持つことも含まれていた。1969年、村での議論の結果、スティーブストンに日本式の武道場を建設することとなった。現在この村のランドマークとなっている武道センター(Martial arts centre)は、スティーブストン・コミュニティセンターの隣に位置している。1953年に設立されたスティーブストン柔道クラブ(Steveston Judo Club)はカナダでも有数の歴史と施設を持つ柔道クラブである。 初期の日系人たちの名は、トメキチ・ホンマ小学校(1990年開校、本間留吉に因む)や、ヨシダ通り(吉田慎也に因む)・ハヤシ通り、工野庭園(1989年、カナダ和歌山県人会がフレーザー川沿いに造園し、リッチモンド市へ寄贈)としてこの村に刻まれている。また、スティーブストン日本語学校(1911年設立)が現在も活動を続け、日系人・非日系人に日本語を教えている。
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