急行「はと」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:46 UTC 版)
1932年(昭和7年)10月、大連 - 長春間に走っていた直通急行列車に「はと」の愛称を付けた。満鉄初の愛称付き急行であった。1934年の「あじあ」登場後は、大連・新京出発の午前中のダイヤを「あじあ」に譲り、正午始発・深夜終着の運行ダイヤとなった。大連発の「あじあ」は、内地からの大連航路に接続していたものの天候不順などを理由とする大連への延着がしばしばあったので、定刻通り出発すると乗り換え客を積み残すことがあった。そのため、1935年9月には「はと」の大連出発時刻が改正され、積み残し客救済の役割を担うことになった。超高速列車ではなかったが、「あじあ」にくらべて「はと」の方が乗り心地がよいという旅客もあったほどで、食堂車も「あじあ」より割安感があった。1934年以降は「パシナ型」を「あじあ」と共用することとなって「はと」そのものも高速化が図られた。
※この「急行「はと」」の解説は、「南満洲鉄道」の解説の一部です。
「急行「はと」」を含む「南満洲鉄道」の記事については、「南満洲鉄道」の概要を参照ください。
急行「はと」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 22:17 UTC 版)
1932年(昭和7年)10月、大連 - 長春間に走っていた直通急行列車に「はと」の愛称を付けた。満鉄初の愛称付き急行であった。1934年の「あじあ」登場後は、大連・新京出発の午前中のダイヤを「あじあ」に譲り、正午始発・深夜終着の運行ダイヤとなった。大連発の「あじあ」は、内地からの大連航路に接続していたものの天候不順などを理由とする大連への延着がしばしばあったので、定刻通り出発すると乗り換え客を積み残すことがあった。そのため、1935年9月には「はと」の大連出発時刻が改正され、積み残し客救済の役割を担うことになった。超高速列車ではなかったが、「あじあ」にくらべて「はと」の方が乗り心地がよいという旅客もあったほどで、食堂車も「あじあ」より割安感があった。1934年以降は「パシナ型」を「あじあ」と共用することとなって「はと」そのものも高速化が図られた。
※この「急行「はと」」の解説は、「南満州鉄道」の解説の一部です。
「急行「はと」」を含む「南満州鉄道」の記事については、「南満州鉄道」の概要を参照ください。
- 急行「はと」のページへのリンク