忠節に死す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 22:19 UTC 版)
荊州の宛城で侯音や衛開らが反乱を起こすと、曹仁と共に鎮圧し侯音と衛開を処刑した。続いて樊城に駐留し、劉備軍の関羽に備えた。 龐徳には、従兄と旧君の馬超が劉備の元にいたことから、樊城の諸将達は彼を疑った。龐徳は常々「私は国のご恩を受け、命を懸ける事で義を行なうものである。この手で関羽を討ちたい。今年関羽を殺さなければ、関羽が必ず私を殺すであろう」と語っていた。後に関羽と戦って矢をその額に命中させた。当時、龐徳が白馬に乗るのを常としていたため、関羽の軍勢は龐徳を白馬将軍と呼んで畏れた。 ある日、曹仁の命令で樊城の北10里に駐屯していたが、長雨の影響で漢水が氾濫し平地が水没してしまい、関羽の船によって攻撃を仕掛けられる事となった。孤立無援の中、龐徳は弓をとって勇戦し、配下の董衡・董超らが関羽に降ろうしたのを発見したため、全員を殺害した。また水没していない丘に登り、弓矢による反撃を続けた。夜明けから日没にかけて、関羽の攻撃も熾烈を極めたが、龐徳は督将の成何に対し、決死の覚悟を再び述べたという。結局、水が増してくると兵が挙って降伏してしまったが、龐徳は濁流の中で配下の将一人と部隊長二人と共に、関羽軍に対して苛烈な抵抗を続けながら小舟に乗り、決して諦めずに曹仁の元に帰還しようとした。しかし、水の勢いで龐徳の小舟が転覆してしまったところを、ついに捕縛された。 関羽は従兄が劉備に仕えていた事から降伏を勧めた。しかし龐徳は「我は国家の亡霊となったとしても、賊将などにはならぬ」と述べ、曹操への忠義を貫いて関羽によって首を討たれた。 曹操は、龐徳の最期の言葉を聞いて涙を流して悲しんだという。またこの時に、宿将の于禁が関羽に降伏してしまった事と、龐徳の死に様を対比し「わしが于禁を知ってから30年になる。危機を前にし困難に遭って、(忠義を貫いた)新参の龐徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」とも語ったという(「于禁伝」)。 龐徳はその忠義を高く評価され、後に曹丕が王位に就いた時、墓参の使者から壮侯と諡された。子の龐会ら4名も爵位を賜る事となった。 景初4年(243年)秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。龐徳は曹操に仕えた期間が短かったにも関わらず、この中に含まれている(「斉王紀」)。 陳寿は龐徳の命懸けの振る舞いを、項羽に殺害された周苛に準えて評している。
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