忠義に殉じる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:06 UTC 版)
7月、東海王司馬越は朝政を牛耳っていた司馬穎の振る舞いに憤り、右衛将軍陳眕や司馬乂の旧将である上官巳らと共に司馬穎に反旗を翻した。この時、嵆紹は司馬越らにより召喚され、その爵位を以前通りに戻された。司馬越は司馬穎誅殺を掲げ、恵帝を伴った状態で司馬穎の本拠地である鄴へ侵攻を開始すると、嵆紹は天子蒙塵(皇帝が変事により都から出る事)の時であるとして、詔を承って行宮(皇帝が出征する際に設ける仮の宮殿)へと馳せ参じた。同じく侍中であった秦準は「今この命令に従えば、その身の安否は測り難いぞ。卿は佳馬でも持っているのかね(優れた馬がいれば、いざという時に逃亡を図れる為)」と述べ、暗に皇帝軍には従わない事を勧めたが、嵆紹は顔つきを正して「大駕(天子)が親征を行い、正義をもって逆賊を討とうしているのだ。必ずや戦わずして勝利を収めるだろう。万が一皇輿(皇帝の乗る輿)に危機が訪れようとも、臣は忠節を果たすのみである。どうして駿馬(優れた馬)など必要となるのか!」と言い放った。これを聞いて嘆息しない者はいなかった。 皇帝軍は軍を進めて蕩陰を通過したが、この時に司馬穎配下の石超により本営を奇襲され、大敗を喫した。百官や侍御は恐れ慄いて四散してしまい、誰も恵帝を守ろうとする者はいなかった。ただ嵆紹だけは礼服姿で儼然としたまま、馬を下りて乗輿に乗り込むと、身を挺して恵帝を庇った。司馬穎の兵が襲い掛かると、嵆紹は乗輿から引きずり出された。すると、恵帝は「忠臣である。殺してはならん!」と叫んだが、兵士たちは「太弟(司馬穎)の命では、犯してはならぬのは、陛下ただ一人といわれております」と述べ、その命を無視した。雨の如く降り注ぐ矢により、嵆紹は遂に恵帝のすぐ側で射殺されてしまった。その血飛沫は恵帝の服にも飛び散り、恵帝はその死を目の当たりにして深く哀しみ嘆いたという。 その後、恵帝が鄴に連行されると、彼の側近は血の付いた服を洗おうとしたが、恵帝は「これは嵆侍中(嵆紹)の血である。拭き取ってはならん!」と声を荒げたという。
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