忠臣としての孔明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:04 UTC 版)
「三国志演義の成立史」の記事における「忠臣としての孔明」の解説
蜀漢正統論の高まりとともに、忠義の士としての諸葛亮の再評価も進んだ。劉備は死にあたり、病床で諸葛亮に息子の劉禅を托し「我が子に才能なくば君が取って代われ」と遺言したと正史にある。しかしそれにも関わらずあくまで劉禅を主君として奉り、不倶戴天の敵である魏を攻め続けたことは、忠義を尽くした行為として賞賛された。上述の通り杜甫が諸葛亮を讃える詩を詠んだことに見られるように、隋唐時代にはすでに忠臣諸葛亮の評価は高まっていた。 諸葛孔明を「聖漢の忠臣」として改めて再評価したのは、蜀漢正統論を強調した南宋の朱熹であった。朱熹の評価では劉璋をだまして蜀の地を奪ったこともすべて劉備の責任として押しつけ、孔明を「三代(夏・商・周)以来、義によって国家形成を目指したただ一人の人物」とまで絶賛している(『朱子語類』巻136)。これには華北・中原地域を金という異民族王朝に奪われ、その奪回を国是とした南宋の置かれた立場も反映していると見られる。中原回復のための北伐途中に死去した孔明は、朱熹にとって国家の理想を反映する英雄であった。
※この「忠臣としての孔明」の解説は、「三国志演義の成立史」の解説の一部です。
「忠臣としての孔明」を含む「三国志演義の成立史」の記事については、「三国志演義の成立史」の概要を参照ください。
- 忠臣としての孔明のページへのリンク