忠臣史観の問題点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:59 UTC 版)
正成の忠臣としての一面を過剰に強調することの問題点は、それがしばしば建武政権と南朝の政治への低評価と結びつくことである。 戦前まで存在した南朝正統史観は、後醍醐天皇・建武政権・南朝を無条件に讃えた史観であると誤解されることがあるが、実際は後醍醐が賛美されたのは大義名分論の側面のみであり、政治的には無能で不徳な君主として扱われていた。こうした暗君像は、軍記物語『太平記』(1370年ごろ完成)などに端を発する。そして、後醍醐は「暗君」であるにも関わらず、三種の神器を持つ正統な君主であるがため、愚直に仕えざるを得なかった「忠臣」の悲哀が、判官贔屓の形で共感を呼んだのである。 このような「後醍醐=暗君、忠臣=正義」の構図は、戦後も前半部分は依然として続き、後醍醐天皇・建武政権の特異性が誇張されたことで、鎌倉時代と室町時代の政治にどのような繋がりがあるのかの解明を困難にさせた。しかし、2000年前後からの実証的研究では、建武政権の政策・法制度は前後の時代との連続性が見られることが指摘され、後醍醐天皇の旧来の暗君像は徐々に改められる方向にある。
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