忠直配流をめぐる騒動とは? わかりやすく解説

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忠直配流をめぐる騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 00:07 UTC 版)

本多富正」の記事における「忠直配流をめぐる騒動」の解説

大坂の陣の後の同年9月18日、実長男本多昌長誕生した。ところがこれが元で元和9年1623年)、養子志摩江戸出奔したと伝わる。元和元年1615年)、幕府諸大名人質江戸に置くように命じると、富正も2歳嫡子江戸送っている。 元和3年1617年)、家康遺骸日光山東照宮への改葬に伴い諸大名並に石灯篭寄進している。秀忠死去の際も、寛永9年江戸増上寺秀忠墓所)に石燈籠寄進している。 元和9年1623年2月主君忠直幕府の命で配流処分になると、越前北ノ庄福井藩)は複数の藩に分割された。その中で附家老同僚本多成重幕府召し返された後に、改め丸岡城与えられ譜代大名として独立取り立てされた。寛永元年1624年)に越前北ノ庄50万石相続した忠直弟の忠昌に付属して府中4.52万石拝領した。この相続まで騒動の際も、幕府より「そのまま残り、忠昌を補佐するように」との特命受けている。また、幕府からは独立大名への打診もあったが、結城秀康への恩義理由断った、と伝わる。その後越前藩家臣筆頭として、主に政治行政面で活躍し加増重ね最終的な知行高は45千石とされている。 寛永11年1634年)、幕府大老松平信綱松平伊豆守)が就任したのを憚り、「伊豆守」の名乗りを「丹波守」に変更している。

※この「忠直配流をめぐる騒動」の解説は、「本多富正」の解説の一部です。
「忠直配流をめぐる騒動」を含む「本多富正」の記事については、「本多富正」の概要を参照ください。

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