忠直配流をめぐる騒動
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大坂の陣の後の同年9月18日、実長男の本多昌長が誕生した。ところがこれが元で元和9年(1623年)、養子の志摩が江戸に出奔したと伝わる。元和元年(1615年)、幕府が諸大名に人質を江戸に置くように命じると、富正も2歳の嫡子を江戸に送っている。 元和3年(1617年)、家康遺骸の日光山東照宮への改葬に伴い、諸大名並に石灯篭を寄進している。秀忠死去の際も、寛永9年に江戸の増上寺(秀忠墓所)に石燈籠を寄進している。 元和9年(1623年)2月、主君の忠直が幕府の命で配流処分になると、越前北ノ庄(福井藩)は複数の藩に分割された。その中で附家老の同僚・本多成重は幕府に召し返された後に、改めて丸岡城を与えられ譜代大名として独立取り立てされた。寛永元年(1624年)に越前北ノ庄50万石を相続した忠直弟の忠昌に付属して、府中4.52万石を拝領した。この相続までの騒動の際も、幕府より「そのまま残り、忠昌を補佐するように」との特命を受けている。また、幕府からは独立大名への打診もあったが、結城秀康への恩義を理由に断った、と伝わる。その後は越前藩の家臣の筆頭として、主に政治行政面で活躍し、加増を重ね、最終的な知行高は4万5千石とされている。 寛永11年(1634年)、幕府の大老に松平信綱(松平伊豆守)が就任したのを憚り、「伊豆守」の名乗りを「丹波守」に変更している。
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