志保井雷吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 04:41 UTC 版)
志保井雷吉は1902年(明治35年)に高田商会へ入社し、大正初期から中国大陸での羊毛の買い付けと、日本への輸送に携わっていた。明治時代、洋装の普及や、軍服への利用のため毛織物の需要が高まり、日本でも毛織物産業が発達したが、国内で牧羊は普及しておらず、原料となる羊毛は輸入に頼っていた。しかし第一次世界大戦後、ヨーロッパ各国は自国産業の復興に注力するようになり、イギリスも日本への羊毛の輸出を制限したため、国内の毛織物工場は羊毛の調達に苦労するようになった。そんな中、上海支店長だった志保井は、安価、かつ継続的な日本への羊毛供給を目的として「支那羊毛改良会社」の設立を計画する。しかし、1922年(大正11年)に締結された山東還付条約の影響を受けて計画は水泡に帰し、間もなく志保井も本店へ転任となり帰国した。 1924年(大正13年)、本店機械部長となっていた志保井はイギリスへ出張した際、第一次世界大戦後にイギリス政府の保護事業として発展していた採毛養兎を見学し、羊毛に代わる繊維資源としてのアンゴラ兎毛に着目する。志保井は採毛養兎についての調査・研究の末、品種改良で生み出されて間もないローヤルアンゴラ種の輸入を計画し、翌1925年(大正14年)に再び渡英すると、ローヤルアンゴラ種の種兎4番(つがい)8匹を購入して海路日本へ送った。そして長い航海の間にインド洋上で2匹、香港から上海へ向かう途上で1匹を失い、同年6月14日に5匹のアンゴラウサギが日本へたどり着いた。日本の採毛養兎はこの5匹から始まったと考えられている。記録によると、英人エー・エンド・テマーナ氏繁殖純粋ローヤルアンゴラ種 「太郎サン」1925年1月27日生 「大サン」1924年8月21日生 「あやめ」1924年2月18日生 「すみれ」1924年5月15日生 外1頭安着せりとある。 この5匹の種兎は神奈川県三浦郡浦賀町、現在の神奈川県横須賀市に設立された志保井ローヤルアンゴラ兎研究所で飼育され、翌1926年(大正15年)には四十余匹に、1927年(昭和2年)末には百数十匹に殖えた。
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