心臓外科医としての歩みとは? わかりやすく解説

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心臓外科医としての歩み

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/15 15:39 UTC 版)

和田寿郎」の記事における「心臓外科医としての歩み」の解説

1950年昭和25年)に北大医学部講師辞めアメリカ4年亘る留学をする。ミネソタ州立大学、オハイオ州立大学胸部外科ハーバード大学などで研鑽を積むミネソタでは、世界初心臓移植執刀した南アフリカクリスチャン・バーナード知己を得、さらに使った動物実験画期的な成功収めその後世界心臓移植牽引し続けたノーマン・シャムウェイともここで知り合ったアメリカ留学の間に合理主義培った1954年昭和29年)に帰国和田母校である北大医学部彼の復帰受け入れなかった。それ以来旧帝国大学医学部敵愾心を抱くようになったとも言われている[要出典]。初代学長大野精七招き新設されたばかり札幌医科大学助教授就任1958年昭和33年)に同医大胸部外科創設されると、36歳若さ初代胸部外科教授となった当時画期的だった人工弁ワダ弁」を自身考案によって開発し弁置換術において日本一実績誇った。なお「ワダ弁」は、後にバーナードによる世界初心臓移植手術にも用いられている。論文の数と術例の豊富さで、歴史伝統を誇る北大医学部第二外科対抗したその後人工心肺心内直視手術開心術)における使用時間の向上とともに心臓外科における未知の領域開拓していった。例え1968年昭和43年)には大血管完全転移症に対す根治手術のひとつであるマスタード手術日本初め成功している。 同年日本初心臓移植手術執刀し、大きくその名を世間知られるが、心臓移植の際にドナーレシピエントをともに殺したではないかという強い疑いかけられるいわゆる和田心臓移植事件注目浴び殺人罪刑事告発されている(不起訴処分)[要出典]。 1977年昭和52年)には木本誠二(東大とともに戦後の日本心臓血管外科リードし続けた榊原仟東京女子医大)の招きで、彼の後任として東京女子医大附属日本心臓血圧研究所教授転任東京女子医科大学定年退職後和田寿郎記念心臓研究所開設した

※この「心臓外科医としての歩み」の解説は、「和田寿郎」の解説の一部です。
「心臓外科医としての歩み」を含む「和田寿郎」の記事については、「和田寿郎」の概要を参照ください。

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