後遺症による引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 10:05 UTC 版)
「グレッグ・レモン」の記事における「後遺症による引退」の解説
4勝目を狙った翌1991年のツール・ド・フランスは、総合優勝したミゲル・インドゥラインから13分13秒遅れの7位に終わった。 1992年にレモンは、アメリカ人初のツアー・デュポン勝者となる。しかし、これがプロ選手として最後の優勝となった。 ツール・ド・フランスでは序盤ではそこそこの成績を残すものの、山岳コースや高速化した際に集団から千切れることを繰り返し、1992年、1994年とリタイアに終わった。このふがいない走りで「ハングリー精神を失い、自らが有するブランドの自転車を売り込むことばかり考えている」、「アスリートではなくビジネスマン」などとマスコミに叩(たた)かれた。しかし、その後の検査により、1987年の事故で体内に残された散弾の鉛が原因と考えられるミトコンドリア性筋肉疾患が進行していることが判明する。 日常生活では支障がないものの、高いレベルの運動を行った時には筋肉に酸素が供給されず、異常な疲労と体力低下を招くというアスリートにとって致命的な病であった。この検査結果を受けて、1994年12月3日にロサンゼルスで開かれたアメリカ自転車連盟各賞授賞式で、プロ自転車選手としての引退を発表した。 1997年のインタビューで、レモンは優勝し損ねた1985年ツール、そして狩猟事故後の1987 - 1988年のブランクによって失ったチャンスを悔やみ、「仕方がないけど、レースの歴史は書き換えられないからね。」「でも、ツールで5回は優勝できたはずなんだ。そう断言できる。」とコメントしている。
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