強制収容と移住の執行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:53 UTC 版)
「日系ブラジル人」の記事における「強制収容と移住の執行」の解説
同時期にアメリカにおいて日系人の強制収容が行われ、多くの日系人が刑務所同様の収容所に強制的に収容されたが、ブラジルではそこまでの迫害は起こらなかった。海岸地帯以外に住む大部分のコロニア(入植地、ブラジルの日本語では植民地と呼ぶ)に住む「日系移民(ブラジルで用いられる表現)」たちは、開戦前の生活の維持が許された。強制再配耕で辛酸をなめた移民がいた反面(ある意味では過酷な条件下での生存権が認められていた)、サンパウロ周辺では戦争景気で成功した日系移民も少なくなかった。 また、日本人であり日本に忠誠を保つ移民一世とは違い、日本人の両親を持つものの、ブラジルで生まれブラジル国籍を持つ移民二世の中には、連合国軍の1国としてヨーロッパ戦線でイタリア軍と戦うブラジル軍に入営し戦う者もいた。 しかしその後1943年8月には「日本海軍船艇との連絡をさせないこと」を目的に、日本人移民および日系人ブラジル人はサントスなどの全ての大西洋沿岸都市から退去させられた上に、その多くはサンパウロ州の内陸部に設けられた強制収容所に一時的に収容された。このため、サントスに住む多くの日系人が職業を奪われた上に資産の凍結も行われ、自宅などの不動産を二束三文で手放すことを余儀なくされた。彼らはサンパウロ州内陸部の未開拓地に強制的に移住された。 内陸部への強制移住は大戦が終結した間もなく後に解除されたものの、資産の没収、凍結の解除は、日本とブラジル間の国交が回復した後の1950年代まで続けて行なわれ、その際に解除を忘れられたままとなった没収資産の一部は、2000年代に至るまで返還されなかった。 日本語新聞の廃刊により、ポルトガル語を解さない多くの日本人移民が世界大戦が行われる中情報断絶状態に置かれることとなった。さらに国交断絶後に日本公館が閉鎖され、1942年になり石射猪太郎特命全権大使以下の外交官や日本企業の駐在員が交換船で帰国すると、日本国内の状況の伝達は現地(ポルトガル語)のマスコミやわずかに伝えられる日本からの短波ラジオの伝達のみとなり、戦況についてのデマがポルトガル語を解さない多くの日本人移民の間で横行することとなった。奥地の農園ではポルトガル語の一般新聞の入手でさえ容易でなく、短波ラジオは非常に高価であった。
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