式内知我麻神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/28 09:52 UTC 版)
上知我麻神社及び下知我麻神社は、延喜式式神名帳の尾張国愛智郡に記載されている小社(式内社)である。星宮社摂社の知我麻神社は、熱田神宮摂社の知我麻神社とともに、この式内の知我麻神社の論社である。星宮社の知我麻神社を、熱田神宮の知我麻神社の元宮とする意見がある。 尾張志は、「いささか臆説を交へてくたくたしく書つつけつ」と断りつつも、以下の考察を付している。 平将門調伏の祈祷のために、星宮社に熱田神宮の神輿を渡御した背景には、二社には当時から境外摂社と本宮のような深い関係があったからとする。後世、上下知我麻神社が熱田神宮の市場町(当時の源太夫社。現在の熱田神宮境内摂社の上知我麻神社)と旗屋町(当時の紀太夫社。現在の熱田神宮境内摂社の下知我麻神社)に遷祀したのも、その関係の深さのためとしている。 倭名類聚抄の「愛智郡千竃郷」は、星崎七村の古地名であり、近世に熱田を千竃荘と呼んだのは誤りとする。熱田の上下知我麻神社が、近世まで源太夫社及び紀太夫社と呼ばれてきたのは、そこが「知我麻(千竃)」ではなかったからであるとする。また二社の位置関係が、その「上下」の序列に反して、下社がより本宮に近い場所にあるのも、別地から遷祀した傍証とする。なお、大日本地名辞書は、尾張志の引用にかかわらず、星崎を千竃郷ではなく作良郷に比定している。 上下知我麻神社は、往古は千竃郷の星崎七村のうち、上下二ヶ所にそれぞれ分かれて鎮座していたとする。 特選神名牒は、下知我麻神社について「又下知我麻社も上古は下千竃と云地にましましを後に此処に移しまつれるなるべしと云り姑く附て考に備ふ」と記し、尾張志と同じく、上下の称は、千竃郷の元宮における地名を表したものという伝承を付している。
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