式内社の論社として
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「杉山神社 (横浜市港北区新吉田町)」の記事における「式内社の論社として」の解説
当社を式内社とする説は『新編武蔵風土記稿』が編纂された文化・文政期以前より存在するが、幕末の神道家であった斎藤義彦や郷土史家の菱沼勇による『武蔵国式内社の歴史地理』(1966年出版、1972年に『武蔵の古社』として改著)などではこの説を有力としている。菱沼勇はこの地域に「杉山」という小名があることや、この地域の旧家で当神社とも関わりがある森家には千年以上の歴史を有するという口伝があること、さらに森家の背後にある丘陵にはかつて大きな勢力を誇った土豪がいた証にもなる古墳の「浅間塚」があることなどを根拠に挙げている。また、『港北区史』では森家の「森」は鎮守の森を由来にしているといわれ、同家は地元で「杉山さま」と呼ばれていることが記されている。この他にも、近くの早淵三丁目には「北川表の上遺跡」および「北川貝塚」があり、『新編武蔵風土記稿』における「都筑郡吉田村に大きな貝塚があった」との記載や地元において「貝塚畑」という呼称が残っているなど、この地域周辺における遺跡の存在は古くから知られていた。 当社も他の多くの論社と同じく、鶴見川水系(早渕川)沿いの高台に鎮座している。
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式内社の論社として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:17 UTC 版)
「杉山神社 (横浜市都筑区茅ケ崎中央)」の記事における「式内社の論社として」の解説
『新編武蔵風土記稿』では「恐ラク当社コソ昔ノ式社ナルヘケレ」と記されており、郷土史家の戸倉英太郎も『杉山神社考』の中で当社を式内社の「杉山神社」と比定している。なお当社も他の多くの論社と同じく、鶴見川水系(早渕川)沿いの高台に鎮座している。 当社境内から背後の丘陵上にかけては、縄文時代前期の貝塚と、弥生・古墳時代集落の複合遺跡である境田貝塚が分布している。
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