建替え計画
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築後30年を経過した昭和60年代前半から、徐々に進む老朽化や高齢化から建替えの機運が高まり、当時の住宅・都市整備公団と一部住民により検討が進められたが、反対者も多く、3年程度の活動で1989年(平成元年)頃に断念に至った。その後、1995年(平成7年)1月に阪神淡路大震災が発生し、直後に管理組合の諮問機関として建替えを検討する再開発委員会が発足、建替えに向けての土台が出来上がった。だが、バブル崩壊後の影響が引き続いており、土地の価格は下落基調で検討もなかなか進まなかった。 再開発委員会が進め方に苦慮していた1997年(平成9年)頃、喫茶店を営む再開発委員の1人が客として来ていた安藤建設(現:安藤ハザマ)の社員に相談を持ちかけたところ、同社が事業協力者として参画を表明、さらにINA新建築研究所がコンサルタントとして参画し、専門家を交えての検討が開始された。2000年(平成12年)頃には、デベロッパーを募集。大手デベロッパーを中心に5社でコンペを行い、某社が選定された。しかしながら、2002年(平成14年)春、明確な理由はわからないが某社は撤退。この年の秋、コンサルタントと事業協力者より、デベロッパーコンペで次点だった野村不動産に参画の打診があり、2003年(平成15年)3月、管理組合と野村不動産は事業協力協定を締結した。 こののちも近隣住民の反対やリーマンショック、東日本大震災、工事費の想定を超えた高騰などに見舞われるが、2016年(平成28年)、阿佐ヶ谷住宅はプラウドシティ阿佐ヶ谷として生まれ変わり、街区ごとに順次竣工し、引き渡された。
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