広島/佐賀
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1950年広島市生まれ。父親は疎開していた佐賀から広島市への原子爆弾投下一週間後の広島に戻り、家族を探して爆心地を歩き回り入市被爆した。昭広(洋七の本名)が生まれた頃は病床にあり昭広が2歳のとき原爆症で亡くなる。家族は母・兄・昭広の三人。 広島市立幟町小学校1年生6歳の頃、佐賀の祖母に預けられ、中学を卒業するまでの8年間の体験が『佐賀のがばいばあちゃん』として後に出版されベストセラーとなり、映画化・ドラマ化された。 佐賀市立赤松小学校、佐賀市立城南中学校と進むが、母親への思慕が募り、また野球がうまかったこともあり、1965年春、高校野球の名門・広陵高校に野球推薦で入学し、故郷広島に戻る。のちに洋七は新人のころ、島田紳助や明石家さんまら、芸人仲間に「広陵高校の野球部出身で、甲子園にセカンドで出た」と言いふらしていたため、皆これを信じていたが、後にウソが発覚した。広陵入学から大阪に行くまでの経歴は、野球特待生として推薦入学したが、練習中に打球が左腕を直撃して肘を痛め、野球をあきらめた、野球部には一年生の夏まで在籍した、一年以上たっても患部が治らないまま、二年のとき退部したなどと話している。河井昭司が広陵の同期。広商・山本和行、福山電波・村田兆治、尾道商・大田垣耕造らが同学年にあたる。昭広が一年時の野球部監督は森岡栄司で、名将三原新二郎監督就任が1966年。広陵は昭広三年時の1967年夏甲子園で、サウスポー宇根洋介、河井らを擁して準優勝(決勝1-7習志野)。広島カープ初優勝時の主力投手だった佐伯和司は三学年下となる。一方的な昭広のしゃべりは、時にはブレーキが利かなくなり、現実とシャレの境目がわからなくなる。自分の経歴ですらその場の空気によっては、マジとシャレを入り混ぜて話してしまい、それが独り歩きしてしまっていると考えられる。 広島工業大学に入学。広島市牛田の八百屋フジモト商店に1年半住み込みで働くなどした後、19歳の頃に再び佐賀に戻り、当時デパートに勤めていた今の妻と知り合う。20歳の時に二人で東京へ駆け落ち。東京へ行った目的は歌手になるためだったという。間もなく妻の貯金も尽き高校の先輩に誘われ大阪に移る。
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