広岡監督時代
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1982年 この年より監督に就任した広岡達朗の下、チームの改革を実施した。その効果はすぐに現れ、前期優勝を果たす。後期は序盤つまずくと残り試合をプレーオフ対策に費やし、1982年のパシフィック・リーグプレーオフでは後期優勝の日本ハムの江夏豊を攻略し、3勝1敗でプレーオフを制し、19年ぶりのリーグ優勝を達成。日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、チームとして24年ぶり、西武としては初の日本一を達成する。 1983年 序盤から首位を独走し始め、86勝40敗4分、2位阪急と17ゲームという大差をつけての2年連続リーグ優勝。日本シリーズは巨人に4勝3敗で勝利し、2年連続日本一を達成。 1984年 アリゾナ州メサで春季キャンプを敢行(日本の球団でメサでキャンプを行ったのは1980年の横浜大洋ホエールズ以来)。日本ハムから江夏を獲得するも、田淵や山崎など、2連覇を支えたベテラン選手が衰え、序盤から低迷し、チームもルーキー辻発彦を抜擢するなど若手主体に切り替え、結果3位に終わった。このシーズン終了後、江夏、田淵、山崎が現役を引退した。 1985年 中日の田尾安志をトレードで獲得、5年目の秋山幸二が本塁打王を争い投手陣では2年目の渡辺久信、4年目の工藤公康が主力投手となるなど若い力が台頭、2年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズでは阪神タイガースの前に2勝4敗で敗れた。シーズン終了後、広岡監督が自身の健康問題(痛風)などを理由に契約年数を1年残して辞任した。後任には1982年から1984年まで広岡監督の下、一軍ヘッドコーチを務めた森昌彦が就任した。この年のドラフトで甲子園通算本塁打記録を持つPL学園の清原和博を6球団競合の末に交渉権を獲得している。
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