幹線網の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 09:50 UTC 版)
「バーデン大公国邦有鉄道」の記事における「幹線網の建設」の解説
最初の路線はバーデン本線と呼ばれ、1840年から1863年にかけて順次開通した。マンハイムからハイデルベルクまでの最初の18.5 kmの区間は1840年9月12日に運行を開始した。その後カールスルーエまで1843年に、オッフェンブルクまで1844年に、フライブルクまで1845年に、シュリーンゲン(ドイツ語版)まで1847年に、エフリンゲン=キルヒェン(ドイツ語版)まで1848年に、そしてハルティンゲン(ドイツ語版)まで1851年に開通した。ケールおよびバーデン=バーデンへの支線はそれぞれ1844年と1845年に開通した。本線をバーゼルまで延長するにはスイス政府との交渉が必要となり、バーデンからの路線をスイスの鉄道網に接続するのはバーゼルがよいか、ヴァルツフートがよいかで議論になっていたため、いくらか遅れることになった。 1852年7月27日の条約により合意が成立し、スイス領内にバーデン大公国邦有鉄道が路線を建設し運行することができるようになった。 バーデンの鉄道は当初、5フィート3インチ(1,600 mm、通称アイリッシュゲージ)軌間で建設されていた。これは広軌のほうが車両を大きくでき、強力な機関車を用いることができるというネベリウスの主張によるものである。当時周辺国では標準軌による鉄道の建設が始まっていたが、バーデンは交通網の要衝に位置するため、隣接国もいずれバーデンと同じ軌間を選ぶであろうと考えられていた。しかしこの思惑は外れ、隣接国すべてが標準軌を選択したことから、バーデン大公国邦有鉄道は1854年から1855年にかけて1年かからずにすべての路線を標準軌に改軌した。 バーデンの鉄道は、1855年にバーゼルに到達し、その後ヴァルツフート(ドイツ語版)へ1856年に、コンスタンツに1863年に到達した。これにより全長414.3 kmのバーデン本線が完成した。重要な南北軸で、またコンスタンツ湖地区への連絡も行うバーデン本線の完成後は、鉄道網拡大計画の続きとしてプフォルツハイム地方へカールスルーエ - プフォルツハイム - ミュールアッカー(ドイツ語版)方面(1859年から1863年にかけて開通)、オーデンヴァルト、タウバーフランケン地方への連絡路線となるオーデンヴァルト線(ハイデルベルク - モースバッハ - ヴュルツブルク、1862年から1866年にかけて開通)、カールスルーエからコンスタンツへバーゼルを迂回せずに直結するシュヴァルツヴァルト線(1866年から1873年にかけて開通)などが進められていった。
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