幡多廃寺塔跡とは? わかりやすく解説

幡多廃寺塔跡

名称: 幡多廃寺塔跡
ふりがな はたはいじとうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 岡山県
市区町村 岡山市赤田
管理団体 岡山市(昭20・5・4)
指定年月日 1944.11.07(昭和19.11.07)
指定基準 史3
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 「塔の元」とせらるる平地内に位し土壇心礎あり土壇其の周囲著しく削平せられ現在東西長さ南縁にて約21尺、南北長さ東縁にて約21尺7寸、高さ約3尺の小壇を残すに過ぎざるも略中央の原位置には巨大な心礎を存せり心礎花崗岩より成り東西徑約八尺南北徑約二尺八寸の淺き割込み施し中央に徑約一尺三寸二分深さ五寸七分の圓孔を刻せり、土壇附近より奈良時代樣式を示す遺瓦發見せらる。
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幡多廃寺塔跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/12 07:57 UTC 版)

幡多廃寺跡
塔心礎

幡多廃寺塔跡(はたはいじとうあと)は岡山県岡山市中区赤田にある仏教寺院跡に残る塔跡の遺跡である。国の史跡

塔跡

水田中に岡山県下最大の塔心礎が一つ露出している。塔心礎の中心部には六角形の浅いくぼみがありここに柱が立てられた。また、深い穴には仏舎利が収められていた。この礎石表面には被熱痕が見られ、火災によって塔が焼亡したと推測されている。

幡多廃寺

この寺院は古代吉備豪族であった上道氏の氏寺の一つと推測される。この遺跡の周囲には備前国府跡や賞田廃寺跡もあり、この地域一帯は古墳時代から奈良時代にかけての古代吉備の中心地の一つであったようだ。

寺院の歴史は出土した瓦より、7世紀後半の飛鳥時代後期に創建され、奈良時代に最盛期を迎え、平安時代後期の11世紀に廃寺となったことが確認された。

昭和47年(1972年)から昭和48年(1973年)にかけて発掘調査が行われ、金堂・塔の基壇回廊・築地・南大門中門・北門などが確認された。寺院の規模は1町四方(約110平方メートル)よりも大きいことが判明しているが、伽藍の正確な配置は未確定である。塔跡周辺からは凝灰岩が出土しており、賞田廃寺同様に凝灰岩壇正積基壇であったことが推定される。これは畿内中心部の有力寺院に見られる基壇で地方寺院では極めて珍しく、中央政権との繋がりの強さを物語っている。また他にも多数の瓦のほか、奈良三彩などの陶磁器類、円面硯、土器などが出土している。

塔跡は昭和19年(1944年)に国の史跡に指定された。

参考文献

  • 湊哲夫・亀田修一/編 近藤義郎/編集協力 『吉備の古代寺院 -吉備考古ライブラリィ13-』 吉備人出版/刊 2002年
  • 現地説明板(岡山市教育委員会/設置)

アクセス

関連項目

外部リンク

座標: 北緯34度40分51.7秒 東経133度57分41.9秒 / 北緯34.681028度 東経133.961639度 / 34.681028; 133.961639




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